イノベーションとは何か

カラ雨とでもいうのだろうか。雨の粒は落ちてこなくても、雨が過ぎたと感じることがある。仕事初めの4日は、とうとう終日上着なしで過ごしたほどのポカポカ陽気だったが、翌5日は随分冷え込んだ。この間見えない雨が降ったのだろう。そして6日はいよいよ本格始動である。時は待ってはくれない。今日は寒気が緩んだ。明日の雨は本当の雨になるだろう。
▼日経夕刊コラム「明日への話題」も、年が変わり執筆者が入れ替わった。月曜の担当は作家の三木卓さんから三菱ケミカルHDの小林喜光社長へ。亡き妻の想い出話をクヨクヨ反芻している物書きから「何事においてもグズグズするのが好きではない」経済人代表へと180度真逆の転換である。もうちょっとどうにかならなかったのだろうか。
▼その小林さんの年明け最初のコラムが「イノベーションが変える」だった。小林さんは、この地球を変えていくものはイノベーションしかないと考える。そして、20世紀を代表するイノベーションとは何だったのか、21世紀に果たすべきイノベーションとは何であるべきかをこの秋からずっと考えて続けているという。
▼僕もイノベーションについては考えたことがある。人類のイノベーションに関わるような人はほんの一握りで、圧倒的大多数はそれを享受するだけの存在だ。小林さんも、イノベーションは思いつきで生まれるようなものではなく、膨大な量の知恵と努力を費やした上に、運にも恵まないといけないという。そりゃ普通の人には関係ないや。運がないからじゃなくてたゆまぬ努力が必要だって点でね。
イノベーションってなんだろう。それにより人々の暮らしぶりが劇的に変わるような革新的な発明や発見。古くは三大発明(発見)火薬と羅針盤となんだっけ?蒸気機関の発明による産業革命、石炭から石油へのエネルギー革命。近くはネットやスマホなどの情報通信革命なんかもそうかもしれない。それから交通移動手段の発達。飛行機もそうだが、なんといっても自動車。モータリゼーションのもたらした影響は計り知れない。医学の進歩もさることながら、下水道整備など公衆衛生の向上の方が平均寿命の押し上げに寄与すること大だろう。
▼正月に買った伊集院静氏の「ノボさん」を一気に読みきった。副題に〜小説正岡子規夏目漱石とあるが、漱石との交友も含めて正岡子規の評伝である。同じく子規と彼を取り巻く人々との交流を描いたものに、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がある。生きているうちはその赴くところ常に人が集まり、死してなお後の世の人が繰り返し取り上げたくなる。よっぽど魅力的な人物だったことはまちがいない。
▼子規がその短い生涯でやりたかったこと。やり遂げたことは何か。自由な表現方法の追求というと陳腐になる。漢学の素養の上に彼は、あらゆるジャンルの習作を試みるが、とりわけ小説という定型を持たない自由な形式に新しい可能性を感じていた。とはいえまだ言文一致とか講談調とか言ってる時代のことだ。ひたすら手探りの作業であることに変わりない。その過程で彼は、古今東西の俳句を全て洗い出し系統づけていくという途方もない仕事を成し遂げる。
▼そのことが子規の名を近代文学史上に遺すことになるのだが、その偉大な仕事は仕事として認めつつ、作者の伊集院氏はそういった文学史的子規像へのアプローチを丁寧に退ける。氏が徹底して強調するのは、損得勘定なく自らの興味に向かって疾走するノボさんの生き様だ。生き急いだというとまた陳腐になるが、iPod、iPhoneと革新的な端末を開発し、若くして倒れたスティーブ・ジョブズの生き様が重なる。
▼子規が追い求めたのは全く新しい言葉使いだった。それは彼の中で最初、心のさまを忠実に表現したいという欲求から生じ、やがて楽しいことを楽しいという言葉を使わずに表現した方がより楽しさが伝わるような表現へと磨かれてゆく。小説としての成功は親友夏目漱石に譲るが、そのような言葉使いは、晩年の子規庵での身辺雑記に結実することになる。今僕が何気なくブログをつづること自体、この子規の苦闘なくしてはありえなかったことだ。これもひとつのイノベーションだろう。
伊集院静の本を初めて読んだが、とてもいい印象を持った。特に別れに臨む人の態度を描くに、抑制が効いた筆致に好感が持てる。そのような離別を経験した人にしか書けない文章だと思う。

4日は焼き野菜盛り合わせ。

5日は茹でキャベサラダにペンネ

6日は大根煮に煮びたしに鮭。

そして今日は根菜カレー。ダイエットメニューであるのは明らかだが、ほとんど意識させない。これもひとつのイノベーションだ。ただし成功したらの話。美味しくて毎回食べ過ぎてたら意味ないね。