こんなにまとめていいかしら

この時期にしてはかなりしっかりした雨が降った後、大陸から寒波がやってきた。寒いには寒いが、気象予報士大寒波というのは大袈裟な気がする。それとも日本海側にはブリザードが吹き荒れているのだろうか。裏日本の事情を想像するのはそれくらい難しい。まして遠い大陸などは地の果てのようなものだ。だがそこで暮らす人がいるのも事実なら、住んでみればなんのことはないのである。
▼下の子がまた「冬休みで全部忘れた」と言い出した。勉強のことである。夏休みの時も「休みなんかなかったらいいのに」と言っていた。彼の頭は何事も間隔があくと全てリセットされてしまうらしい。休み明けにはテストがあって不安に駆られるのもいつものこと。眼が覚める度に「8分後に起こして」と、テストの前日までは分刻みで睡魔と格闘していたが、勝てるはずもない。
▼上の子は相変わらずのマイペースである。早々に進路を決め、ほとんどバイトばかりしている。昨夜はそのバイト代の振込が少なかったと、一人でバイト先の社長に掛け合いに行った。時間も遅く、下の子の方が「一人で大丈夫かね」とおろおろしている。下の子じゃなくても親に頼ってもいいケースだ。怖気づいたり気後れするところがまるでないのも彼の特徴のひとつである。強がっているわけではない。コワイもの知らずというのとも違う。単にいつでも平常心なのである。
▼さて、「ノボさん」に続く真冬の読書週間第2弾は、村上春樹の最新刊「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の旅」。僕のハルキ初体験は、社会現象となった「ノルウェーの森」ではなく、書下ろし長編「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」だった。そこから「風の歌を聴け」などの初期の作品群に戻り、「ノルウェー」と「ねじまき鳥」を読んだのは結婚してから。直近の「海辺のカフカ」と「IQ84」はまだ読んでいない。つまりは忠実な読者でも熱烈なハルキストでもない普通の読者である。
▼今回この「色彩」に手が伸びたのは、大学2年の時、高校の友人グループから突然絶縁された主人公が、16年ぶりにその理由を知るためにかつての友人たちを訪ね歩くというストーリーにひかれたからだ。あるいは過去の作品にも繰り返されているテーマかもしれないが、特に若い頃は失恋という形で、人に捨てられ傷ついてきた僕の個人的な興味からである。
▼つきあって互いに人となりを知った相手が、どうして自分の元から去っていくのだろう。いわば人格の全否定である。人間にとってこれほど深い絶望はない。絶交された当初、主人公つくるは本当の理由を知るのが怖くて、つまり自分から人が離れていく理由が本当に自分の側にあるという事実をつきつけられるのが怖くて、相手に理由を確かめることなく自分の人間性に問題があるからだと考えようとする。
▼なかよしグループのみんなが、それぞれに自分の名前に色を持ち、それぞれの色でそれぞれを呼び合っていたことから、自分には彼らのようなカラフルな個性が欠けていると思い込む。幼い頃から駅が好きで、現在も駅の設計に携わる仕事についているが、それも様々な人と列車が通り過ぎるだけの通過点の比喩としてある。つまりは愚にもつかないこじつけだ。マイナス思考とは、もっと厳しい現実から目を背けるための逃避だということがよくわかる。
▼なぜ自分が切られたかではなく、その関係がなぜ続かなったのかを考えなければならない。それはどちらか一方だけに問題があるのではなく、それぞれに事情があるのだ。そして永遠に形を変えずに続く関係など存在しない。本当に悲しくてつらいのはそのことだ。自分にとって居心地のいい関係性ほど永遠に続くことを願うのが人情だが、そうはいかない。それは何も恋愛関係に限ったことじゃなく、親子、夫婦、友人、職場など全ての人間関係に言えることだ。人は前を向いて生きるために巡礼の旅に出る。

木曜は焼き鮭に切干大根に蓮根と牛蒡の煮物。

金曜は白菜と豚肉のミルフィーユ鍋。

土曜はお正月のおせちについていたサービス券を使って「くら寿司」。うまかった。弟にあげればよかった。

そして今日は鮭にミネストローネに焼肉にレタスとモヤシとしらたきのシャキシャキサラダ。