現代のベートーベンと顔のない鑑定士(僕)

先週末に続いて大荒れの週末である。またまた雪にこそならなかったが、雨風共に強くひどく寒かった。雨は春の兆しのはずだが気がめいる。
▼以前から耳が遠かったガードマンの聴力の衰えが隠しようもない。至近距離でも声をあげて話さないと聞き取れない。話題の佐村河内守氏より聞こえないと断言できる。こちらが声をかけると何度もきき返す様子を見て、若い茶髪の作業員が失笑するのを僕はたしなめた。「誰でもいずれはこうなるんだよ」
▼常に大音響の中で働く建設業界、とりわけハツリ屋さんの中には、老化に伴うものでなくても後天的に難聴になる人は多い。また全聾でなくても、遺伝的に比較的耳の聴こえにくい家系の人もいるだろう。別に音楽家でなくても、ついた渾名が「ベートーベン」という人はかなり多いのではないか。
▼「現代のベートーベン」と言われた佐村河内氏は、かのNスぺでも取り上げられたらしい。「魂の旋律〜音を失った作曲家」感動的なタイトルの権威ある番組が、氏のブレイクのきっかけになったという。いったい担当ディレクター氏は彼の何を取材したのだろう。髪や無精ひげを伸ばした風采といい、壁に後頭部を打ちつける作曲シーンといい、まさにこの手の詐欺師の代表選手、麻原彰晃に瓜二つだ。本当に誰も気づかなかったのだろうか。
▼いや、そうではない。気がつかないはずがない。メディアは佐村河内氏の上昇志向に乗ったのである。お互いの利害が一致した彼らは暗黙の共犯者だ。メディアはまず彼を祭り上げ、そして今よってたかって袋叩きにしている。おそらく業界人は例外なく一粒で二度オイシイと思っているはずだ。こうしてヒロシマと東北の二つの悲劇をダシにした稀代の詐欺師が誕生した。つまりはメディアが作りあげた産物である。
閑話休題。正月に買ったミシェル・ウェルベックの「地図と領土」を読んでいる。すこぶる面白い。日本の作家でも自分より年下の若い世代のものは不案内になりがちだ。ましてフランスの作家となると、僕の中ではジャン=フィリップ・トゥーサンあたりで止まっていたが、知らないうちにこんな面白い作家が出てきてるなんて。時々チェックしないとダメだね。優れた作品には要約できない何かがあるのでネタバレを恐れず以下に粗筋を記す。
▼主人公のジェドは幼少のころ母親が自殺し、建設業で成功した父親の手で育てられた。生い立ちのせいか内向的な性格のジェドは、美術学校に進み、卒業後も就職せず在学中からいくらか注文のあった商業写真などで細々と生計を立てる。彼の純粋の趣味である、いわゆる什器などの金属製品を撮ったものだ。美学生時代、彼には売春で学費を捻出する同じ学校の恋人がいたが、彼女が常連客と結婚するのを機に別れた。
▼次に彼が魅了されたのは地図である。祖母の葬儀に出るため、父親を車に乗せて走る道行の途中、たまたま見た地図がきっかけで。それから彼はミシュラン製の、なんの変哲もない道路地図を撮影しては引き伸ばすという行為を繰り返すようになる。初めての個展で、彼の作品はミシュランの広報担当の美しい女性の目に止まり、二人は恋人同士になる。これがジェドが30の時。
▼ロシア人の彼女が、母国の担当になって帰国するのを機に二人は別れ、同時にジェドは写真をやめ人物画を描くようになる。最初はいろいろな職業人、後に彼が興味を持った各界の著名人の瞬間を切り取った絵は、彼の才能を認める画商が勝負に出た個展で大成功を収める。経済的には成功したジェドだが、個展の一年前には既に、毎年隠居した父親と二人きりで食事する習慣だったイブの夜、描きかけの絵を破り捨て、このテーマから離れることを心に決めていた。これが40の時。
▼金属製品の写真から道路地図の写真、市井の無名の人から著名人へと小さな変化はあったものの現代の名工の群像劇とでもいうべき肖像画へ。十年ごとに大きく作風を変えると同時に以前のやり方には一瞥もくれず、ジェドはどんどん浮世離れしてゆく。彼の興味が自分自身やこの世の成功に向けられることはほとんどない。従って、他人の視線を自分に引くために奇を衒う必要もない。
▼それは彼の最初の作品である金属製品の写真が、照明や背景に工夫を凝らして物質の特性を強調しようとする意図がまるで感じられなかったように、ただひたすらに芸術と労働の意外な親近性について、自らの創作活動を通して考え続けているかのようだ。そこに母親が自殺した父子家庭だとか、全聾は嘘だが被ばく二世は本当だとかいう話が入り込む余地は微塵もない。
▼それにしてもジョナサン・フランゼンの「コレクションズ」と双璧の面白さだ。世界をトータルで捉える技術において、外国の作家の方が優れているように思う。芸術家の仕事が、情緒に訴えることではなく世界を表象することだとすれば、少なくとも小説の分野では一般に日本の作家より欧米の作家の方がずっと上だと思う。

水曜はヨガの日だったが、さすがにカレーではなくチキン南蛮に白菜サラダ。