世を忍ぶ美学

この週末は年度末工事のピークだったが、なんとかのりきった。昨年から継続中の大型工事の検査も控え、来週いっぱいは気を抜けないが、もう春は目の前だ。
▼忙中閑ありで、金曜は久々に映画を観に行った。現場を閉めると一目散に直帰し、風呂に入って夕食をとり、私服に着替えて出かけた。前日の雨が通り過ぎた後の寒風にひるみ、ホワイトデーかつ歓送迎会シーズンの只中という最悪のコンディションであることに思い当たり一瞬躊躇するも、ニット帽を目深にかぶり、コートの襟を合わせてお忍びで街まで出かけた。
▼映画は「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」で一躍当時の若者の教祖的存在になったジム・ジャームッシュ監督の最新作である。

▼「ザンパラ」や「ダウンバイロ―」などのジャームッシュ作品は、その頃好きだった彼女のお気に入りで、音楽でいえばハービー・ハンコックの「処女航海」、小説でいえばマルグリット・デュラスの「愛人」などと同様、彼女のシモベにとって必修科目だったが、どういうわけか観ていない。ヒマを持て余している時はあれだけ腰が重かったのに、忙しい最中に疲れた身体を押して観たい映画を観に行くなんて、僕も随分変わったもんだ。
▼映画は現代の吸血鬼譚である。アダムとイヴ、イヴの妹エヴァ、それにマーロウの四人の吸血鬼が登場する。吸血鬼は人間の生血を吸っている限り永遠に生き続けることができる。現代においてもアダムはカリスマロックスター、マーロウは小説家だが、それぞれにそれぞれの時代の著名な芸術家たちのゴーストライターだったことが、彼ら同士の会話の中でさりげなく明かされる。
▼超人的な能力を持つ彼らにも、昼間は行動できないなどの弱点はあるが、なんといっても現代において彼らの最大の困難は生血の入手である。なぜなら今は「15世紀じゃない」ので、人間に直接手を下すのは憚られるからだ。彼らは主に病院で医師を籠絡して得た血液で生き延びている。だがケガをした人の身体から流れる血を偶然目の当りにした時など、不意にもたげる吸血鬼の本能を抑えるのに苦労する。ひとり奔放なイヴの妹エヴァだけは、欲望のままに生きた人間を手にかけ殺してしまう。
ジャームッシュ監督の最新作が、30年前のデヴュー作と同じトーンかどうかは観ていないのでわからない。仮に同じだとすれば、当時の彼女(たち)が憧れ、支持した世界観のようなものがよくわかる気がする。簡単に言って、それは耽美主義のことだが、彼女たちもただバブルに浮かれていたわけではなく、彼女たちなりに軽佻浮薄な世の中に倦み疲れ、厭世的な気分に陥っていたのかもしれない。
▼話は変わるが、STAP細胞のオボカタさんがピンチだ。ついひと月前までリケジョの星だった彼女が、今や所属する理研ノーベル賞理事長に「未熟」「ずさん」「徹底的に教育し直す」と断罪される有様だ。聴き取り調査に際し、問題とされるデータの改ざんや画像の転用について、彼女は「やってはいけないとは知らなかった」と答えたそうである。
▼オボカタさんが意図的に不正を働いたかどうか、あるいはSTAP細胞なるものが本当に存在するかどうかは門外漢の僕にはわからない。ただ感じるのはやはり理事長の言ったように「我々も勉強しなくちゃならない。つまり(彼女の例が)特別なのか、それともこういうこと(コピペ、転用、改竄)が他にも普通に行われているのか。行われているとすれば時代というか、カルチャーが変わったとしか言いようがない…」ということだ。
▼科学者にとって実験や検証は、自分が立てた仮説が他の可能性によるものでないことを証明するために、その可能性をひとつひとつつぶしてゆく作業であるはずだ。ところがこの「未熟な」科学者にとっての実験は、自分の仮説を証明するために都合のいいデータを得る手段でしかなかった。
▼何も科学の世界に限ったことじゃない。現代の世相を一言で言うなら「なんでもあり」だ。ほとんど全ての人が成功するためには手段を選ばず、そのことに罪悪感すら覚えない。つまりは無法状態である。オボカタさんは吸血鬼でいえばさしずめ節操のないエヴァだろう。だが勝てば官軍の勝ち馬に乗りたがる現代人に、オボカタさんを批判する資格はない。

土曜はチキンのトマトソース煮込みにキッシュのワンプレート。普通の主婦は割烹着なんて着ない。いわんや有能な科学者においてをや。