春雷、電影、追憶

木曜は生憎の雨。朝から降っていた雨はすぐに本降りになり、昼前にはかなり強くなった。海沿いの町は道が狭く、丘の上にある大学への上り下りの坂道にはずいぶん気をつかった。
▼入学式の長男を見送った後市役所に転出届を出し、最後に前日の引越で気づいた足らずを買い足して下宿を後にした。隣町にレンタカーを返して特急に乗り、再び東京駅に着いたのは夕方である。そこで在京の友人と会う妻と別れ、僕は映画を観るために池袋へ向かった。
▼池袋は僕にとって、まず初体験の韓国人ホステスからバイト先に紹介されたヤクザの雀荘とクラブがあったところである。それから恋をしていない時期、純粋に性欲解消のためにソープランドに通った場所でもある。当初はラブホテル横の大衆店「ふくろ」それからワンランクアップして「桃李」になった。新宿でも吉原でもなく、なぜか池袋だった。
▼つまり池袋は、学生時代の僕の性的実践の場として無意識にインプットされていたわけだが、忘れがたき性的体験の記憶と結びついているわけではない。つまり当時の僕は、自己の性的欲望について十分に意識的であったとはいえないだろう。要するにまだ子供だったわけだ。
▼駅前の新文芸座だからと高を括って傘なしで東口を出たはいいが、東京のブランクは思いのほか長く多少迷ったのと、思いのほか強い雨にやられズブ濡れになってしまった。そして映画が終わる頃、せっかく乾いてきた僕のシャツの袖はもう一度濡れることになる。
▼映画は地元で見逃した森崎東監督の「ペコロスの母に会いに行く

認知症が進み介護施設に入った母親と主人公、彼らを取り巻く人々の現実の交流と、時に主人公自身の追想も交えながら、おそらくはボケた母親が見ているであろう母親の頭の中の現実とを映画は交互に描き出す。
▼病弱で幼くして亡くなった妹。口べらしで長崎にやられピカドンを浴びた親友との遊郭での偶然の再会。酒乱だった亡き夫(父)の想い出。そして長崎ランタンフェスティバルでの感動の大団円…現実と記憶の混淆、あるいは現実世界と記憶の中の出来事との共存。ボケと映画に共通する特質を活かしきった傑作だった。
▼映画を観終わっても雨勢はそのままである。ほとんどドシャ降りと言っていい。行く前は自由人さんのブログに出てくるお店で一杯ひっかけてからシモキタのマスターの店に回るつもりでいたが、断念してホテル近くの駅に移動し本屋で時間を潰しながら妻の連絡を待つことにする。
▼再び池袋駅地下の人混みを歩く。ソープに行く途中、今は亡き友人に出くわした。「どこ行くの?」ときかれ「ソープ」と答えたら笑ってたな。実家に帰らなかった年の暮れ、やたらに混雑する待合室で美空ひばりの追悼番組をやってた。それから最愛の彼女にフラれた後に行ったソープで初めて若い娘がついて、その娘にネックレスをプレゼントしたっけ。けどセックスはちっともよくなかった。正直何も感じなかった。あんなことは後にも先にも初めてだ。よっぽど参ってたんだろう。
▼雨は相変わらず勢いよく降っている。20時を過ぎて最寄の地下鉄駅で妻と合流する。素泊まり20時以降チェックインの条件で、都心のホテルに安く泊まれたはいいが、都心すぎて辺りにコンビニすらない。なんとなく夕食を食べそびれていた僕が半ばあきらめかけたところ、忽然と掘立小屋のような長崎ちゃんぽんの店が現れた時は夢かと思ったよ。友人と食事を済ませている妻を先に行かせ、僕はチャンポンを頬張った。
▼一夜明けて雨が上がった翌日は一日妻のお供。白金台の散策からスタートし、目黒川の桜を見物し、渋谷でランチした後、表参道の雑貨屋に回り、青山のカフェでお茶して、品川から新幹線に乗った。



昨年の東京行の焼き回しだが、僕は文字通り妻の鞄持ち以上ではなかった。実質的に僕の旅は終わっていた。
▼行きの外房線への乗換えに戸惑ったことといい、東京に戻って妻に友人との待合せ場所への行き方をうまく案内できなかったことといい、池袋で映画館への道を迷ったことといい、今回ほど記憶が役に立たなかったことはない。今後はもうガイドブックがないと妻を満足させられないだろう。グーグルマップには完全に負ける。
▼それは妻が行きたいような場所に僕が元々縁がなかったからという理由もあるが、そればかりでもないような気がする。事実、僕はもう東京の住人ではないし、僕が東京を離れて既に20年以上が過ぎたが、そればかりでもないような気がする。
▼今度の旅はずっと坂道を歩いていたような気がする。ずっと雨の中を歩いていたような気がする。それはほとんど僕の青春の記憶に重なるが、東京に行く機会にそれらの記憶の場所を実際にたどって確かめたことはない。そうしたい気もするが、おそらくは思い描いているような実感は得られないこともわかっている。
▼記憶は現実の記憶ではなく、たぶんもうひとつの現実なのだ。だからホンモノの現実とうまく折り合いがつかない。けど記憶が実際の役に立たなくなればなるほど、記憶の現実感はどんどん大きくなってゆく。いかん僕もヤキが回ってきた。若年性痴呆症かしら。