悔恨というスパイス

まとまった雨の後は、いっとき強い冬型になる。上の子の引越&東京観光から帰ると真冬なみの寒さが待っていた。いわゆる寒の戻りというやつだ。この土日は戸外の風の音に身をすくめながら、ブログの更新に読書、時々うたた寝と一歩も外に出ず終日うちで過ごした。おかげで骨休めにはなった。
▼旅のお供に持参したカズオ・イシグロの「日の名残り」を読み終えた。大英帝国の落日を、その良き伝統の体現者たる執事の人生に重ねあわせ、執事自身による回想の形で書かれたこの小説が傑作であることは僕の感想を待つまでもないが、何より僕好みの作品だった。人生はままならぬものだ。小説にしろ、映画にしろ、僕にとっての優れた作品とは、そのことを淡い悔恨のキャンバスにそっと定着させたものである。
▼話は変わるが、最近自由人さん以外に、もうひとつフォローしているブログがある。僕より一年ほど後発で、かつ芸術系のエントリーにもかかわらず、既に一日10万PVくらいアクセスがある人気ブログだ。三年半やって累計10万PVあたりをウロウロしている理由を、文芸ジャンルのせいにしてきた僕の面目は丸潰れである。ジャンル違いの社会派ブロガーには悔しさは感じないが、これはかなり悔しい。
▼筆者は芸術学部系の大学院を出て2、3年目の20代の女性らしい。すると50目前の地方在住の土建屋のおっさんのブログはのぞく気すらしないが、都内在住の文学部及び芸術学部系の女子大生、およびそのOG、およびかつて僕がそうだったように、そういう女性が好きな男性はけっこういるってことかもしれない。
▼テーマは確かに芸術系のマニアックなものもあるが、文章のリズムというか調子が、この業界の第一人者である超人気ブロガー女史にそっくりだと思ったら、正直に女史に啓発されたと書いてあった。彼女たちと僕のブログの違いはなんだろう。社会派だろうが芸術派だろうがグズグズ派だろうが、ブログの地の文章がわかりやすいのは共通だと思う。ただ彼女たちにある何かが僕には決定的に欠けているような気がする。
▼その理由は、大学に六年も在籍した挙句中退し、卒論どころかレポートすらまともに提出したことがなく、かといってその間本を読み映画を観まくって我流で感性を磨いたわけでもない、要するに多感な時期をただ無為に過ごした僕の経歴に求められる。全くあの頃の僕は「星の王子様」に出てくる、酔っ払いであることが恥ずかしくてまた酒を飲む酔っ払いみたいなもんだ。それじゃあ恋人どころかみんな逃げちゃうね。
▼ブログが普遍性を持つには、つまり単なる個人的な与太話を超えるには、ある種の思考訓練が必要なのかもしれない。ひとつのテーマについて文献を漁り、資料を集め、そこから論理的な結論を導き出し、それをある一定の分量の文章にまとめる。まさに卒論にあたるが、この関門をくぐった者とそうでない者では、おそらく単に技術上の問題にとどまらない発想に関わる差ができる。
▼だがしかし、ただ落胆ばかりしているわけでもない。彼女が女性であることと同様、彼女が若いこともまた、僕には争いようのないことだ。芸術作品の受容に必要な資質には、年齢と共に培われる種類のものもある。「日の名残り」について彼女は、「人生を後悔している全ての人におすすめの一冊」と手放しの褒めようだったが、彼女はまだ人生を後悔するような年ではない。
▼そして彼女には、夕方のベンチで執事が流す涙の味も、本当の意味では一生わからないかもしれない。それは残りの時間があまりなくなった段階で人生を振り返った時、初めて自分の人生が失敗だったことに気づいた人にしかわからないものだ。それがわかるには彼女はあまりにも若く、前向きで、才気に溢れている。
▼唐突だが、僕が自由人さんに憧れる最大の理由は、僕のブログに時折顔をのぞかせる、この種の皮肉なあてこすりや意地悪な調子がどこにも見当たらないからだ。いろんな意味で粋でうらやましい。それにしても僕は妻もあきれるほど性格が悪い。そういうところも「日の名残り」に描かれた主人公の執事に似ていると思うのだが、人生の夕方を味わうにはやはり悔恨のスパイスは欠かせないものだ。

土曜は豚肉のソテーにポテキャベサラダに桜えびごはんに下宿の大家さんから戴いたワカメの味噌汁。

そして今日は温かいうどんが出てきた。妻の手料理にはまた別のスパイスがきいている。