サヨナラだけが人生だ

どうやら風邪をひいたらしい。休み明けの月曜はまだ若干寒さが残っていて、股引を脱ぐのが一日早すぎた。気がゆるんでいる証拠だろう。忙しくないのも良し悪しだ。そして今日はもう初夏の陽気である。季節はどんどん移り変わってゆく。
▼久しぶりのまとまった休みもあっというまに終わってしまった。最近とみに時間の過ぎるのが速く感じられる。10才の子供にとって、一年は人生全体の1/10だが、アラフィフのおっさんにとっては1/50にすぎないからだ。これをナントカの法則というらしい。大人の時間は子供の何倍速ものスピードで進んでいることになる。
▼場を与えさえすれば、子供は学校だけでなく、放課後部活に塾に習い事にと大車輪の活躍で一日何役もこなすことができる。それはすなわちボールが止まって見えているからだ。若いので動体視力がいいともいえるが、主たる理由はこの時間感覚による。大人の考えがすぐに古くなり、その古い考えにいつまでも拘泥するのも同じ理由からだ。要は時の経過についていけないのである。人はどこかで時間に追い越され、あとはどう頑張っても時代遅れの人になる。
▼長男が大学に行って、ポッカリ穴があいたようにさみしい。高校の時から既に部活があるうちは部活で遅くなり、引退してからもバイトや遊びでほとんどうちに寄りつかなかったから、状況としては特に変わったわけではないが、やはり先日引越を手伝ってからというもの、彼が家を出たことが実感としてひしひしと感じられる。妻には早くもお金の無心など毎日のように連絡があるようだが、男親の僕とは、もうよほどのことがない限り話すこともないだろう。
▼この感覚は身に覚えがある。なんとなく失恋に似ている。もちろんそこまで強烈な感覚ではないが、ある種の喪失感にはちがいない。血をわけた親子とはいえ、いつまでもいっしょにいられるはずもない。当たり前のことだが、彼の人生と僕の人生は別のものだからだ。23年前の最愛の彼女との最後のデートも、今振り返るとそのような別れだった。
▼渋谷の雑踏からそこだけ取り残されたようなガード下で、僕の口からこぼれ落ちたセリフは期せずして次のようなものになった。「このまま、ずっといっしょにいるわけにはいかないかな」彼女は視線を落とし、かぶりをふった。それは拒絶の意思表示というより、「どうしようもないのよ」と言っているように見えた。
▼この時期、真新しいリクルートスーツを着た若者をよく見かける。東京では特に目についた。彼らがこの横並びの黒い服を脱ぎ、自分の服で出社するようになるのはいつからだろう。卒業、就職という通常のコースから脱線した僕にはわからないが、もしかすると入社式一日だけの衣装かもしれない。今の僕からすれば、みんな初々しいフレッシャーズに見えるが、四年間の大学生活にはそれなりのドラマはあっただろう。
▼彼女とは、僕とは流れる時間が違ったのだと思うほかはない。人生を共に歩むには、二人の間に同じ時間が流れていなければならない。同世代で、同じ国に生まれ、似たような環境に育てば、ある程度は共有できるかもしれない。でも最終的には別の人格なのだから、完全に寄り添えるかどうか、最後はそれぞれの決断だ。出会った時期や人間としての成熟の度合いも影響するだろう。
▼彼女の人生と僕の人生は、あの年の初夏の三ヶ月だけ交錯する運命だったのだ。それは彼女にとっては交通事故のようなものだったかもしれないが、菓子折を持って謝りに行く機会すらなかったな。そんなものはもとより形式的なものにすぎないが。

月曜はジャンボチキンカツ丼になめこ汁。

そして今日はパスタセット。この時間に早くも夕飯を食べ終わり、ブログをアップする僕であった。ヒマだね。
▼土曜日二週連続で同じ産休インストのお別れ会に出ていった妻は、月曜も友人のうちに遊びに行って午前様である。これではとても夫婦で同じ時間を共有しているとは言えないが、それが長続きの秘訣かもしれない。