生命のエチカ、研究のエチケット

暑い。今日あたりは最高気温が23度となっているが、ところによっては25度を超えているところもあるだろう。そうなるともう夏日だ。まさに汗ばむほどの陽気である。
▼そんな陽気の中で、今日は屋上の雨漏れ修理。ヒマな時に腰を据えてやる仕事である。階段を登ったり下りたりして喉が渇き、10時と15時に二回とも炭酸ジュースをしっかり飲んでしまった。桃のスパークリングとドクターペッパー。うまかった。幸せだ。安くできている。
▼僕の仕事がヒマということは、下請けもヒマということだ。親方は仕事がなければ払わなければいいが、作業員はこの時期ホントに干上がってしまう。その日暮らしの人たちの多くがその日暮らせなくなる→サラ金をつまむ→すぐに限度額になる→ヤミ金に手を出す→姿を消す(夜逃げ)。
▼僕にも金策の電話がかかってくる。何人かは本当にいなくなる。助けてあげたいのはやまやまだが、個人的にできることはない。所属する会社の親方がたてかえる以外に、彼らがここにとどまる方法はない。そうやってある日突然いなくなる人に共通の特徴をひとつだけあげるとすれば、虚言癖かな。一種の現実逃避だ。
▼今日、オボカタさんの上司で問題の論文の指導的立場にあったササイ氏が会見に臨んだ。彼の意見は丁寧な言い回しながら、平たく言えば「論文は撤回が適当」であり、STAP細胞の研究は「仮説に戻った」というものだった。概ね僕の意見と同じである。ただし論文を指導した共著者の彼の口から出ると他人事みたいに聞こえてしまうのは致し方のないところだろう。
▼これで論文の共著者全員の意見が出そろった。論文の撤回についてはオボカタ×、バカルディ×、ワカヤマ○、ニワ○、ササイ○、リケン◎。仮説を実験データによって証明したものが研究論文とするなら、裏付となるデータを他所から持ってきて「結論は同じだから」という感覚はフシギちゃん以外の何物でもない。
▼前にも書いたように、オボカタさんに悪意はない。ただ、ある意図をもって故意にデータを操作したことはまちがいない。これを一般的には改竄といい不正というが、悪気のない彼女からすればミスということになる。その違和感は、もはやオボカタ=コピペ世代と我々以上の世代のカルチャーの違いとしか言いようがなく、それはそのまま米国と日本のカルチャーの違いでもある。
▼昨今の日本も完全にアメリカナイズされた感のあるこのカルチャーを一言でいえば、「結論ありき」というところに落ち着く。「細胞にストレスをかけると初期化する(万能性を獲得する)」という魅力的な仮説に、みんなが目が眩んだ。みんなが飛びついた。仮説というと聞こえはいいが、要は着想であり、もっと言えば単なる思いつきである。それを証明するのが科学者の仕事なのに、結論ありきになってしまった。結論ありきとは、端的に言って予断であり思考停止のことである。
▼STAP細胞は、いったん「第三者の検証が待たれる合理性の高い仮説」に後退したが、将来的に仮説が立証されたとしても後味の悪さは残る。なぜなら今回の騒動で図らずも、我々の社会の隅々にまで「結論ありき」のカルチャーが浸透していることが明らかになったからだ。研究倫理すら形骸化しているカルチャーの下で、まっとうな生命倫理の議論が行われるはずがない。
▼表題の「エチカ」は言わずと知れたスピノザの倫理哲学の本である。スピノザライプニッツなど昔の哲学者は同時に優れた自然科学者だった。スピノザは、川原先生の哲学概説でかろうじて汎神論者だと習った記憶があるだけだが、自然現象について考察することが倫理的考察と切り離せないことはなんとなくわかる。
▼一方の「エチケット」はマナーというほどの意味だが、ネットで語源を検索するとフランス語のナンチャラからきているという。僕はてっきり倫理学のエチカ+小さいを意味する接尾辞かと思っていた(例、オペラ→オペレッタ、メゾン→メゾネット)。もとより仮説にすぎない。

水曜はいつものヨガカレー。妻よ、インストがやめて、ひとつはやめるはずじゃなかったのか!