エピソードの王様

朝から雨模様の天気である。ここ数日天候がすぐれず肌寒い日が続いている。冬の雨は寒さが緩むが、春は冷たい雨になる。この時期の陽射しは相当力強い。陽がさせば気温はグングンあがるが、陽光が遮られると、そんなに上がらないというわけだ。
▼今朝になって気づいたのだが、昨日午後からボクシングの試合に行くのをすっかり忘れていた。ブログでも一度取り上げたことがあるが、地元財界の大物が後援している関係で、会社でチケットを購入している興行のことだ。もし観戦していれば、昨日のエントリーにもう1つエピソードが加わっていたはずだ。ちょっと人間関係を見直さないと、さすがにつきあいばかりじゃ意識に大穴があくな。
▼さて、気づかれないように勝手にそれとなくライバル視している芸術系女性ブロガーの最新エントリーで、先日亡くなったノーベル賞作家のガルシア・マルケスを取り上げていた。代表作「百年の孤独」は、多少なりとも文学に興味のある人なら、名前くらいは聞いたことがあるかもしれない。でも実際に読んだことがある人は稀だろう。もちろん僕も読んだことない。
マルケスを紹介する芸術系ブロガー本人も、実際に読んだことがあるのは「エレンディラ」という短編集だけで、なおかつその感想はほとんど訳者あとがきによるという有様だ。たいていのポストモダン小説は、訳者や専門家によって、その難解さが強調される形で紹介され、そして誰にも読まれない。ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」みたいに。
▼例えばプルーストの「失われた時を求めて」なんか、有名な冒頭のセンテンスからマドレーヌの記憶まで、実際に本を読まなくても、ただ仏文科に在籍してるだけで次々に情報が入ってきた。美味しいとこだけ先に摘み食いすると、凍らせたジュースをまだ溶けないうちに飲んで残った氷みたいなことになる。後から本書を読もうにも、味が薄くて読めたもんじゃない。
プルーストは大学2年くらいの時に「楽しみと日々」という習作を読んだのが最初である。当時好きだった彼女にプルーストを読んだというアリバイのために、手に取りやすいという理由だけで選んだものだが、彼女が読んでいたのもその文庫だけだった。それから36の年に、切断した指の回復手術で入院した際、ヒマすぎてついに鈴木道彦の「失われた時を求めて」のダイジェスト新訳(それでも大部の上下巻)を読んだのが最後である。
ジョイスといえば、もう十年近く前に友人の一度目の結婚式で上京した際、エロ本時代から私淑していたN師匠と、シモキタでマスターの店を皮切りに朝までハシゴしたうちの二軒目が、ジョイス翻訳の第一人者である柳瀬尚紀氏の姪御さんがやられていたお店だった。柳瀬尚紀ときいて「ああ英文学の」と僕が答えると、「やなせたかし猪瀬直樹と間違える人が多いの」と喜んでくれた。実際には読んでないけどね。
ガルシア・マルケスではないが、ラテン文学でいえば、最愛の彼女が最初に貸してくれた本がレイナルド・アレナスの「めくるめく世界」だった。僕は彼女との最初のデートの時、馬場の「欣葉」で彼女にその本を返した。赤い色調の調度品に囲まれ、映画に出てくるような女主人が注文をとると、円卓の上に湯気をたてた皿が次々と現れては消えた。なんだがフワフワと宙に浮いているような感じがした。
▼こうなると、もうマジックリアリズムの解説ですらない。単なる想い出話である。芸術系ブロガーに対抗するつもりで批判的に記事を始めたものの、出てくるのは取るに足らないエピソードの類ばかりだ。そういやアラン・ロブ=グリエの紹介者だったトクサンは、授業でサルトルボーボワールみたいな話をする時は決まって「こういう話が好きな人もいるから…」と断ってから始めたっけ。
▼思えば僕のブンガクとの関わりも、そういうものだった。「ガルシアマルケス」ときいてバッグのブランドを想起するギャルや、「百年の孤独」ときいて焼酎を思い出すオヤジ、柳瀬尚紀ときいて猪瀬直樹と間違える酔客となんら変わるところはないね。

今日はチキンときのこのクリームパスタ。ブルーチーズが効いて超うまい。