時間旅行のツアー

GWのスタートは汗ばむ陽気である。上の子はもういない。下の子もずっと部活。仕事は休み。お祭りにも参加しない。これほどの解放感をもってGWを迎えたのはいつ以来だろう。僕はそれほど人嫌いというわけではないが、人と会うのはそれなりに疲れるものだ。
▼昨日は下の子がセレクションに出て行くのを待って、妻と二人でゆっくりお出かけ。目的地は本屋。最近定期的に湧きあがる読書欲を抑えることができない。どうしてもスタバのバナナ一本丸ごとオレが飲みたいという妻と別行動で、市内最大の駅ナカ書店を二時間たっぷりうろつく。
▼まちがいないところでジョナサンフランゼンの「フリーダム」、ジュリアンバーンズの「終わりの感覚」、カズオイシグロの「私を離さないで」の洋モノばかり三点を大人買い。ジョルジュペレックの「物の時代」を見つけてどうしようか迷ったが、小遣いが一気に目減りする感覚があってやめた。
▼それは弓削三男先生の訳で、1978年に白水社から出版された本の、別の出版社からの再版だった。奥付に1923年生れとあるので、僕がならった1988年頃は65才だったことになる。講義にほとんど反応のない学生たちが、何か配布物があると我先に押し寄せる様に「みんなエゴイストなんだから」と怒っていたのが印象的だった。
▼今思い出したのだが、おそらく先生は僕の転部試験の面接官だったんじゃないかしら。志望動機をきかれた僕が「芸術、文化、その他もろもろフランス的なものに憧れて」と答えると、先生は「子供じみたことを言うんじゃないよ!」と吐き捨てた。入学以来、僕はずっとそんな調子だった。先生方にとっては、きっとエゴイストより始末の悪い学生だったに違いない。
▼妻と合流してモスでお昼を買い湖畔の公園に向かう。ベンチに座って目の前に広がる湖を眺めながらハンバーガーを頬張る。普段は市民の憩いの場だが、地元の人がGWに行くには近すぎ、遠方からわざわざ訪れるほどの行楽地でもない。備えつけの休憩用のベンチが、ちょうど埋まるほどの人出である。
▼サクランボの実が生っている。躊躇なく口に入れる。小さくてとても酸っぱいが、ちゃんとしたサクランボだ。小さい頃は、このサクランボやグミ、桑の実などをよく食べた。グミはあまりおいしいものではない。まちがいないのは桑の実だが、あるところにはあっても、ないところには全くない。養蚕の文化があるところでないと。
▼隣りで小さな子供連れの家族がシートをひいてお弁当を食べている。とても楽しそう。僕もこちらに越してきた年は、二人の子供を連れてここに虫取りに来た。小さな子供がいる家庭は、それだけで笑顔が絶えない。なぜなら子供は希望そのものだから。でもそうでない場合もある。
▼子供に必要なのは血の繋がりか、経済力か。きっと両方だろう。先日のNスぺでは、経済的に恵まれず、生まれてくる子供を手放す決心をした母親たちを紹介していた。一方里親の方は、子供が欲しくて養子をとるくらいだから情愛に富み、裕福な人が多い。彼らは引き取った子供をわが子のように育てるが、子供はなぜか里親が本当の親でないことを悟り、どこか陰のある子に育つ。
▼僕も実際にそういう人を知っている。「パパとママは大事に育ててくれた。欲しいものは何でも買ってくれたし高い教育も授けてくれた。でも本当の親は別にいるの」彼女はそう話していた。もう前後の成り行きは忘れたが、どういうわけか僕は彼女の引越を手伝うことになり、どういうわけか彼女の部屋で二人だけになった。
▼若い頃は「ふくろ」の年増ソープ嬢でもなんでもよかった僕も、その時だけは全くその気になれなかった。彼女はけしてブスではなかったが、とにかくその気になれなかった。ピチーズアキントゥラブ。親が実の親じゃない。その一点であまりに境遇が違いすぎて、僕は彼女に同情すらできなかったのかもしれない。
▼草地にじかに寝転んで、ジュリアンバーンズのさわりだけ読む。気持ちがいい。草の匂いに包まれて小説世界に入っていく感覚は、ちょっとしたトリップ感がある。ジュリアンバーンズは学生の頃、「フロベールの鸚鵡」を読んだ。本好きの彼女と感想を言い合って、「あれ、よかったよねえ」と微笑みあえた唯一の本だ。その場で僕は彼女に、小説のモチーフであるフロベールの「純な心」を和訳する約束をしたのだ。
▼就職活動中の彼女にそんなことをして、いったい何になるというのだろう。「いいよ、たいへんでしょ?」彼女は遠慮したが、僕はきかなかった。バーンズにもフロベールにも鸚鵡にもそれほど意味はなかった。ただ自分の想いの長けを込めたものを、何かしら彼女に手渡したかっただけである。
▼「本ならうちで読んで。夕飯の支度が遅くなる」頭の上からいきなり妻の声が聞こえ、現実に引き戻された。それからおとなしくうちに帰って喪服に着替え、同僚の親の通夜に出た。小遣いが目減りしていく感覚がある。長くなったので続きは次回!