集団的自衛権と京都奈良の旅

「外はアツアツ中はヒエヒエな〜に?」なぞなぞができそうな気候である。初夏の強い陽射しが容赦なく照りつける車中はジリジリと焼けるような暑さだが、幸いカラッとした風がびゅーびゅー吹いているので外に出ればそれほどでもない。その空気のせいで、一日中日陰の室内は、ヒンヤリしてむしろ寒いほどだ。おかしな天気だな。
▼下の子が修学旅行から帰ってくるので、スーパーによって彼の好きな氷系のアイスとスルメゲソを買って帰ると、妻も同じアイスを買い込んでいた。それから大好きな牛肉を買って、布団を干して、枕カバーも替えたらしい。居間のソファカバーとカーペットも替えた。妻は今日一日ずっと、下の子が喜びそうなことを考え、その全てを実行に移した。母親とはそういうものだ。
▼同じ頃、下の子もママのことばかり考えていたのだろう。気を遣わなくていいと言っておいたのに、またお土産を何個も買ってきた。定番のヤツハシからシカのフンまで、スイーツ好きの妻のためにお菓子ばかり十箱以上。プレーン、抹茶、イチゴ、チョコ…テーブルに並びきれないほどだ。きっとお店を移るたびにたりないような気がして、一個ずつ買い足していったに違いない。子供とはそういうものだ。
▼にしてもどうして日本の中学生の修学旅行は、判で押したように京都奈良と決まってるんだろう。京都奈良なんて、僕らくらいの年になってから、夫婦でフルムーン旅行でも行けば十分だ。上の子の高校の修学旅行の時にも書いたが、まずは外国。異文化体験。どうしても国内というのなら、奈良でシカにエサをやるより広島の原爆資料館に行った方がずっとマシだ。仮にも観光でなく修学旅行というのなら、子供たちが何かを考える契機にならないと。
▼まだいろんな知恵をつけられる前の柔らかい心に、原爆投下の事実はどのように映るだろう。そのような教育的下地のもとに9条や集団的自衛権が議論されれば、結果はわかりきっている。そうならないためには、国民に何かを禁じたり、自由を制限したりする必要はない。単にそのことに敢えて触れないようにするだけでいい。
▼昨日のブログにも書いたように、僕は学生時代に二度も広島まで足を運びながら、原爆ドームにも原爆資料館にも行かなかった。それは僕が個人的な理由で病気だったせいもあるが、友人も案内しようとはしなかった。多くの日本人にとっても広島は、原爆<カープお好み焼きだろう。教育的機会を設け、敢えて連れていかないかぎり、目を背けたくなるような事実に自分から近づこうとする人は少ない。
▼一見自由に見えて、日本は国民に触れられたくないところにはなかなか近づけないように巧妙な仕掛けが施されている。本当に大切なことを学ぶ場には、個人の自由意志をもってしか辿り着けないようにできるだけ遠ざけられている。行くなとは言わない。でも連れてはいかない。それだけで十分なのだ。
▼自由な社会とは、教育的機会がない社会のことである。反日教育を展開する韓国や中国が、国が教えたいことを教える国なら、日本は国が教えたくないことを教えない国。やってることはおんなじだ。自由な国を標榜している分だけ日本の方がたちが悪いかもしれない。そうでなければ、中学生が修学旅行でフランス料理のフルコースを食べてテーブルマナーを学ぶことに何の意味があるのか説明がつかない。
▼戦争とは人と人とが殺し合うことである。親であれば子供をそんなところにやりたくはない。でも他国に攻撃されれば、自分の国を守るというより、まずは自分を守るため、あるいは子供を守るために誰に何を言われなくても戦うだろう。集団的自衛権と個別的自衛権の違いを、僕はそう理解しているけど間違ってますか?誰かコメントください。炎上はゴメンだけど。
▼国民を戦争に行かせないというただ一点のために、他のあらゆる犠牲を払ってこれまで守ってきたことを、犠牲が大きすぎるから破ろうというのなら、それはこれまでとは真逆の思想である。少なくとも解釈の変更ではない。それはいったい誰のための、どんな利益なんだ?いや、国益というようなことでもないかもしれない。
▼それは「祖父岸信介以来の宿願」という極めて私的な信条(信仰?)以上のものではないだろう。それが血筋というものだ。シンゾー坊ちゃんといい、ブッシュ坊ちゃんといい、ヨシミ坊ちゃんといい、あまりにも私的な動機で行動する政治家が多すぎる。子供は親の意なんか酌まなくていい。人の親になれば、そのことがわかる。

昨日は僕のためにスナップエンドウのパスタに焼ズッキーニ。

今日は下の子のために牛肉の塩コショウに鳥と水菜のサラダにズッキーニのマリネ。

そしてそんな妻のために下の子が買ってきた生八ッ橋セット(一部)。