退屈な人生の語り方

今日は映画を観に行った。週明けは雨の予報だが天気は早くも下り坂。気象予報士が30度近くまで上がると言っていたが、実際確かに蒸し暑かった。よほど半袖にしようか悩んだが、結局3枚しかない長袖シャツのうち、一番薄いものにした。外に出てみるとそこまで暑くない。なんといってもまだ5月だ。
▼日曜が毎週休みだと、困るのは着るものである。この2ヶ月はシャツ3枚×ズボン2本の組合せでなんとかしのいだが、来週から半袖解禁だ(自分の中で)。ポロシャツ2、シャツ2、ズボン1(2本のうち薄手の方。ただしシッコじみが目立つのが難点)短パン1(オフィシャル厳禁)の組合せだが、来月第二週から休日工事が再開するのでなんとかなるだろう。
▼映画は御年とって104歳の巨匠オリヴェイラ監督の「家族の灯り」。原題は「ジェボ(主人公の名前)と影」である。

正直目を開けているのに苦労した。なんとか熟睡だけは免れたが、半分意識は飛んでいたと思う。フランス語のセリフ劇なんてほとんど地獄である。耳元で念仏唱えられているようなもんだ。それなら極楽往生か。
▼舞台は主人公の家。それも居間のみ。登場人物は主人公のジェボ夫妻に息子夫婦に友人が二人だけ。彼らの会話シーンを、その組合せを変えて順番に撮影しただけである。まるで僕のワードローブなみの慎ましさだ。冒頭で息子がなんらかの犯罪に巻き込まれたことを示唆するシーンが流れ、あとはもう家である。姑と嫁が、そろって主人公ジェボのその日の帰りと、帰るあてのない息子(夫)の帰りを待っている。外は寒い。あるいは雨だ。そうやって、もう8年の歳月が流れた。
▼父親は息子の失踪の理由を知っているが、息子の妻である嫁とはその理由を共有するものの、息子の母親である自分の妻には真実を伝えない方がいいと考えている。真相をしらない母親は、息子が帰ってこないのは嫁が悪いと考えている。嫁は夫のいない家で、義理の両親と8年間もよくやっていると自分で自分を褒めてやりたいと思っている。そんな夜、放蕩息子は突然帰還する。
▼翌日ジェボと妻のそれぞれの友人がジェボの家を訪れる。息子が戻った母親は機嫌がいい。テーブルを囲んで談笑する四人に、嫁はいそいそとお茶を出すが、息子は気に入らない。「こんなことに何の意味があるんだ?毎日毎日同じことを繰り返して。こんな生活を続けるくらいなら死んだ方がマシだ」息子はそう言い放って、その晩出納係の父親が預かっているお金をつかんで家を飛び出す。
▼今度もやはり息子の所業を母親に伝えるわけにはいかないと考える父親は、ドロボーを捕まえにきた警察に向かって「わたしがやりました」と答えるところで映画は終わる。エンドロールが流れ始めた瞬間、「え?これでおしまい?」と思ってしまったから、もしかすると半分どころか完全に寝ちゃってたかもしんない。巨匠、ごめんなさい。
▼随分退屈な映画だったが、テーマは重い。息子の実際を理解している父親のジェボが、警察が来る前に嫁のソフィアに話すセリフが身につまされる。「富もなく年老いた人間の生活は惨めだ」とか「じゃあ他に何ができる?今の会社は私を哀れんで雇ってくれているのだ」とか「絶望して犯罪の誘惑に身を任せるより、ただ義務を果たすよりないではないか」とか。まさに人生とはそのようなものだ。
▼そして、そんな希望のない世界に生きる主人公が唯一身体を張って守ろうとしたことが、妻に息子の堕落を知らせないようにすることだった。すなわち家族の灯りを消すまいとしたのである。実際、8年ぶりに息子が戻った翌日、友人と語らう母親の表情はことのほか明るかった。人生に救いがあるとすれば、やはり気のおけない友との語らいだろう。
▼人生は退屈だ。ほとんど同じこと、それも辛い義務の繰り返しである。富も才能もないほとんどの人の人生は、そうやって平凡に終わる。だが毎日同じ生活を繰り返すことでしか成り立たないものもある。家族もそのひとつだ。そんな人生をつまらないと思う人、そうやって一生を終えることがガマンならない人に、犯罪への誘惑が口をあけて待っている。
カズオ・イシグロの小説のモノローグといい、この「家族の灯り」のディアローグといい、退屈な人生を語るには退屈な形式をもってしなければならないのかもしれない。寝ちゃったからわかんないけど。レヴューこれであってますか?

夕食は大好評のツナマヨパスタに夏野菜サラダ。妻が最近お気に入りの超人気ブロガーのレシピなのだ。