耳に何を飼っている?

梅雨のハシリだろうか。週初、一晩中激しい雨が降った後は、薄曇りの日が続いている。晴れても空に霞がかかったようで、抜けるような青ではない。蒸し暑い。蛙の声が急に大きくなった。いつのまにか田植えが終わっている。季節はまた一歩先に進んだようだ。
リチャード・パワーズの「舞踏会に向かう三人の農夫たち」を中途であきらめ、蜂飼耳の「おいしそうな草」に寄り道。読書熱がMAXの時に買い込んだ本を低調な時に読み通すのは難しい。経験上一度に買っていいのは二冊まで。だが人は昂っている時は常に5割マシである。つい3冊4冊買って、最低一冊はお蔵入りだ。
▼蜂飼耳という名前はペンネームだろう。ビクトル・エリセ監督の映画「ミツバチのささやき」から拝借したんじゃないかしら。

僕はこの映画を、当時好きだった彼女に薦められてみたので、彼女の事ばかり考えてしまって筋がたどれなかった。でも元々筋に意味のある映画じゃなかったかもしれない。ただ主人公の女の子アナのふくらはぎの形がよかった。あとは全体の色調がよかった。
▼後年、別の彼女にフラれた直後に柔道サークルの主将とサシで飲んだ時、彼が突然「アナが線路に耳を当てるシーンあるでしょ。あれは死への誘惑を表現してると思うんです」と言い出すのでビックリしたことがある。思わず「誰がそんなこと言ったの?」ときくと「僕です」だって。
▼彼女に何かしら誇れるものをと、6年ぶりに門を叩いた柔道サークルの主将である。コッテ牛のような体型で、宴会では寅さんの「男はつらいよ」を唄うような朴訥な柔道マンだ。入会後最初の宴会で、2年留年している僕に「留年して何か意味あります?」と言った法学部のリアリストだったが、映画が好きらしく話をきくだけで僕よりよっぽど観ているとわかった。人は何を隠し持っているかわからない。
▼その日は映画好きの彼と、渋谷で山本政志監督特集を観てマスターの店に行った。ただでさえ精神病(アル中)なのに彼女にフラれて重症だった僕は、いつものようにウイスキーを煽るとあっというまに気を失った。とても寒い夜だった。彼はあの後どうしただろう。まあ帰っただろうな。ただその日は、「このまま卒業してただ就職するのもつまらないような気がして」と言ってたような気がする。悪い影響与えちゃったかな。
▼「おいしそうな草」はエッセイである。詩人は耳に蜂を飼っているのだから「ミツバチのささやき」を聞くのはお手のものだろう。芝、時間を食べる、鹿に抱かれて、冬眠状態、満ち欠けのあいだに、からっぽの熊、待つことのかたち、詩と唐辛子、ハノイの朝は、城は城でも、カッコの気配、蛙はためらわない、その海辺をたどる、最終の空気、ここまでで半分。わけなく半分読んだ。あんまり呆気ないので忘れてしまわないようにタイトルを復唱する。でも忘れる。
▼耳に何かを飼っているのは詩人の専売特許ではない。僕の弟は小さい頃耳の中にハエが入ってしまった。ミツバチなら詩になるが、ハエなら笑い話である。虫が光に寄ってくる習性を利用して、母が懐中電灯を弟の耳にあてて出した。のだと思う。虫が穴にもぐる習性と光に向かう習性。うちの下の子の耳クソの大きさも尋常ではない。「耳か聴こえにくい」と訴えるのでとってやると、完全に穴が塞がっている。何もそんなになるまでほっとかなくても…これも下の子に共通の習性なのかもしれない。
▼昨日は同僚と焼鳥屋で軽く一杯。「自分ができもしない仕事とってくるな!忙しいのにみんなに迷惑かけるだけじゃないか」と社長に怒鳴り散らされた物件を相談すると、「あんた営業なんだから、そんなの技術屋に任せときゃいいんだ」と心強い返事に少しホッとする。今週は全体に低調だった。そんな時期もあるだろう。
▼僕がこの稿で懐かしんでいるのは、ある種のやわらかさのようなものである。アナのふくらはぎのような。下の子の耳たぶのような。それは年月と共に失われ、やがて何も聞こえなくなる。

月曜はもやし豚丼

火曜は酢鳥。昨日は焼鳥でなし。今日はタコライス風。