サッカーは世につれ

絵描き歌どおり、6月6日は雨ざあざあの日本列島である。四国、紀伊と土砂災害をもたらした豪雨は、東海を飛び越えて関東を襲い、まだ降っている。明日からも降りつづく。たしかに梅雨入りはしたものの、どこか降り方がおかしい。局地的とかゲリラ的というより、徹底的に偏っていて、なおかつ予測不能だ。まあそれこそが自然の特徴なんだけどね。
▼この週末は久しぶりの現場だった。カラーコーンを並べ、墨出しをするだけでうっすら汗をかく。土日とも半日現場に立っていただけで身体が痛い。健康には、この日常のちょっとした動きが重要だ。うちに帰ってもゴロゴロするだけでなく、家事を手伝うとか。例えば布団をあげたりお茶碗を下げるだけでいい。敢えて激しい運動をする必要はない。大事なのはこまめに自分で動くこと。炊事洗濯掃除をきちんとする主婦に太っているヒマはないだろう。
▼土曜まで雨が残ったが、今日は朝から梅雨の晴れ間が広がった。日陰になる室内は涼しいが、戸外はどんどん気温が上がってゆく。午前中現場を回して午後から後援会のサッカーを観に行く。

ひとりじゃつまらないので妻を誘った。僕も妻もサッカーに興味はないが、二人でいることが楽しい。ちょっとしたデートだ。
▼今日は1stステージの優勝が決まる試合とあって、2週間前より観客は多かった。事業所の顔見知りの社員も何人か見える。二人つれの人もいるが、一人で観に来ている人もいる。吹石一恵さんもやってきた。これだけ広いスタンドでなぜ毎度僕の隣に?偶然か。サッカー少年の集団が、のべつまくなし食べている。試合なんかてんで見ちゃいない。点が入る都度に「あー見逃したー」と騒いでいるが、すぐおしゃべりに夢中になる。子供なんてそんなもんだ。
▼僕が子供の頃は、まだあちこちに空き地があって、草野球に興じたものだ。小学生は公式にはソフトボール。学校の休み時間にはゴムまりを使ったハンドベースボールやドッジボールを使った足けり野球をして遊んだ。王、長嶋が現役だった頃のことだ。男子の将来の夢はプロ野球選手と相場は決まっていた。今も野球が特別なスポーツであることに変わりはないが、サッカーがここまで市民権を得るなんて思いもよらなかった。
▼サッカーというスポーツを、僕が初めて意識したのは高校の時だ。学校創立以来の不世出の美女が、どうやらサッカー部の友人のことが好きらしいと気づいた時のことである。球技大会でもサッカー人気は高く、部活もしてないガリベンくんがサッカーに参加してセンタリングをあげるのに驚いた記憶がある。僕は中高と柔道部に入り、その傍らラグビーに熱中していた。社会人で新日鐵釜石が7連覇し、大学では平尾、大八木擁する同志社が全盛だった。
▼1990年のワールドカップで、カメルーンがアフリカ旋風を巻き起こした時、世界的にはオリンピックより盛り上がると言われるサッカーのワールドカップについて、僕は全く知らなかった。隅田川の花火大会の日、彼女に「カメルーンの応援が可愛いのよ」と言われて初めて意識にのぼった。もうその時には、僕たちの関係はどうにもならないところまできていたので、サッカーは僕の知らない彼女を補強する材料にしかならなかった。
▼それから二年後のJリーグ開幕の熱狂、1994のドーハの悲劇、1998のジョホールバルの奇跡、そして2002の日韓共同開催まで歳月は瞬く間に流れた。Jリーグがスタートした翌年に地元に戻って塾の講師をした僕は、子供たちの間に、いかにサッカーが浸透しているかを知って驚いた。スクールカーストの序列でいえば、サッカー部は明らかにバラモンになっていた。それはバブル期をまるまる東京で過ごして田舎に帰ってきた僕を、浦島太郎の気分にするには十分な変化だった。

金曜はそぼろ丼。

土曜は残りもの彩々。そして今日は冷やしぶっかけうどん

今日ひとりでやってきて、チャンスにもピンチにも声もあげず、ひたすら緑のピッチに目をやっていた人たちは、何を見つめていたのだろう。