その人の閾

梅雨の晴れ間が広がっている。日中は暑いが、夕方にはいい風が吹く。もうすっかり夏の風情だ。
▼一昨日雨の中、仕事関係の葬儀に出かけた。お世話になったのは故人ではなく喪主の方である。前日の通夜は業者仲間と待合せて行ったのだが、告別式に知った顔はたったの一人きりだった。生花も個人名のものだけだった。席も半分埋まっていただろうか。明らかに親類縁者のみによる葬儀である。
▼読経、焼香と式は進み、喪主の挨拶になった。それは僕がその人に抱いていた印象通りの簡潔なものだったが、それから出棺までの間に、彼は何度もハンカチで涙を拭っていた。その人はみんなから一目置かれるような人だったので、とても意外だった。見てはいけないものを見てしまったような気がして、僕はずっと下を向いていた。
▼母親とおぼしき老女が、斎場に向かうバスに乗ろうともせず、いつまでも出棺前の霊柩車の後部から離れようとしなかった。人には仕事のつきあい程度では立ち入ってはいけないような私的な領域というものがある。彼の涙はそこに属するものだろう。
▼タイ在中の父のブログに、母の調子が悪いと書かれていたので電話したら、途中でも切り上げて帰ってくるという。若く健康な人でも水が変われば体調を崩す。なんといっても後期高齢者だ。無理はきかない。父も何度か「おそらくこれが最後」と書いていたが、もうそんな年なのだろうか。僕が仕事で顔を合せる人は、商売をしているせいか高齢でも意気軒昂だ。人間を支えるものは強烈なエゴと欲望だけなんだな。彼らは文字通り枯れることを知らない。
▼上の子がどうやらバレー部をやめるらしい。大学の教育の一環で親にあてて書かされた手紙に、いろいろ言い訳が書いてあった。妻には早いうちからやめたいとこぼしていたようだが、弟にもバツが悪いのかギリギリまで黙っていたようだ。甘やかしてもしょうがないので「もう大人なんだからよく考えて自分の責任で決めなさい」と突き放したメールを送っておいた。
▼思い描いていたイメージと違うことは山ほどあっただろうが、おそらく一番の理由は、先輩に殴られたりパシリにされたりするのがイヤなのだろう。この子はちょっと気位が高いところがあって、意味もなく他人に命令されるような関係を長期間続けることは難しいと思っていた。
▼体育会に顕著で、組織社会では当たり前のこうした理不尽な上下関係は、なんでもない人にはなんでもないが、難しい人には難しい。練習はいくらきつくても平気なのだから、肉体的に苦痛なのではなく精神的に苦痛なのだ。世の中には稀に、自分の肉体の主人は自分だけだという感覚を無意識に身につけている人がいる。こういう人間は首に縄をつけて引っ張っても動かない。
▼子供の思慮の足らない手紙を読みながら、僕は自分の学生の時を思い出していた。酒を飲んで酔っ払った勢いで父に意味不明の手紙を書いたこと。私立の大学に六年も通った挙句「やめる」と言いに帰ったこと。そんな大事な話をする場面でも、やっぱり酒を飲んで早々に酔い潰れてしまったこと。いろんなことを言っても、直接の原因はわかりきっていた。僕はその年の前半に失恋して、それ以後何をする気も失せてしまったのだ。
▼そんなくだらない理由で学校をやめた僕に比べれば、部活をやめる手紙なんてかわいいもんだ。この先この子がとんでもないことをしでかしたとしても、自分がしてきたことを思えばたいていのことはゆるせると思う。ホントに法に触れること以外、ありとあらゆる親不孝は全てやりきった自身がある。
▼ほぼ定時に帰宅すると、年下の友人がまた電話をよこしてくれる。「なんで連絡してこないんだ?」という問いかけに、「仕事するだけの毎日だから、なかなか接点がなくて」と答えてしまった。それから社長からもらった焼酎をあけて飲んだ。晩酌はやめたが、そこまで肩肘はっても仕方あるまい。

昨日は今年初のとうもろこしが出た。

そして今日はアジの開きにチャプチェにキャベツサラダ。