社会的公正とは何か

相変わらずの梅雨空である。このあいだ下の子が久しぶりにサッカーゲームをしていた。上の子がいた時以来のことだ。きっとワールドカップを観ていて急に思い出したのだろう。
▼さて、今日から約一年ぶりのバス通勤だ。免停前歴二回。過日一旦停止義務違反で待ち伏せの警官に切符を切られ、−2点で即免停である。前歴二回の直接的な原因は人身事故だが、ここでは詳しく言わない。興味のある方は過去ログを参照してください。
▼昨日、一昨日と、意見の聴取に引き続き、長期の免停短縮講習を受けてきた。免許取消で交通社会から排除される人の半分は、酒酔い運転や死亡事故などの一発退場だが、あとの半分はこうして免停を繰り返しながらフェイドアウトしていくらしい。
▼警官は軽い気持ちで切符を切ったのだろうが、出費は7千円の反則金だけではすまない。短縮講習費2万6千4百円。免停中の交通費は会社に通うだけで往復千円×45日=4万5千円。担当事業所への移動がこれに加わる。少なくとも実費で10万近くは出ていくことになる。ボーナスの査定等会社の考課に与える悪影響を考えれば、逸失利益は20万をくだらないだろう。ちょっとした軽犯罪の罰金刑だ。
▼こんなこと毎年やられたら家計ももたないし、ちょっとブラックな会社ならクビになるところだ。今クビになれば長男は大学生を続けることはできない。運よくすぐに次の就職先が見つかって、妻もフルタイムで働いたとしても、現在の世帯収入はとても見込めないだろう(現在がとりわけ高給というわけではないが)。そうなると一家離散も視野に入ってくる。
▼一年間無事故無違反を継続することができないのだから、僕にもどこか落ち度があるのはわかる。でもスピードを出したり飲酒運転をしたわけじゃない。講習の運転適性検査では、精神活動性(運転に必要な判断力)は最高、自己顕示性と攻撃性は全くなかった。危険運転の可能性はゼロに近い。どう考えても、自分の行為とそれに課せられた罰則とが公正なバランスを保っているとは思えない。
▼警官に悪気はないだろう。きっと自分のノルマを達成するために、いや、単に日々の業務をこなしているだけで何も考えていないに違いない。現にその若い警官は、自分の受け持ちはその場所と、もう一か所だと言っていた。決められた場所に通い、通りかかる車を処理する。それが彼の仕事だ。そのために事故が起こりやすい場所かどうか知らないが、違反が起こりやすい場所が選ばれている。それ以上のことを考える能力は彼にはない。
▼たいていのことはガマンできる僕も、待ち伏せの警官に「見逃すわけにはいかない」なんて言われると、さすがに「オマエなあ、そんな力むところちゃうやろ!」と言いたくもなる。うちの近くにもこのような待ち伏せポイントがあり、定期的にパトカーが止まっている。そこで妻も捕まったことは前に書いた。僕らの警察に対する不信感、社会に対する不公正感は並大抵のものではない。こんなことが続くようなら、公正な社会システムへの信頼がゆらぐ。子供の教育にも悪い。
▼階下で素振りに勤しむ下の子は、妻が捕まって以来、上がってくると「今日もいる。三台やられた」と言うようになった。一時期は将来警察官になるといい、近所の敬愛する先輩が制服を着て帰ってきたことを喜んで話していた彼が、もう警察官になりたいと思わなくなったとしても仕方がないと思う。やってることがあまりにも下らなすぎるからだ。
▼その下の子が、努力の甲斐あって、昨日中体連最後の夏の大会用にヒトケタの背番号を持って帰ってきた。平静を装っているが、内心小躍りしているに違いない。ずっとレギュラーがとれるか不安がっていたのだ。もらってきた背番号をユニフォームに縫い付ける妻の心中も察するに余りある。ひたむきな努力家の下の子がガッカリしなくてよかったと、心底ホッとしているだろう。
▼僕ももう警察を悪く言うのはよそう。それよりこの子を前にして恥ずかしくない生き方をしなければ。大人の役割とは結局のところ、自分の人生を通して次の世代に、「世の中そんなに悪いもんじゃない」と教えることにある。我々の社会は、よりよく生きようと努力する市民に対して公正さをもって報いるものだと証明してやらなければならない。

今日はがパオライスにナスとキュウリの冷製。