自由主義からの逃走

雨が多い。やんでも蒸し暑くはない。すっかり秋の風情である。今日はやっとシトシト秋雨らしい降り方になってきた。今までは降ればスコールみたいで秋雨と呼ぶには抵抗があった。東京のデング熱騒ぎは収束に向かうどころか拡散する一方だ。雨の降り方といい、蚊が媒介する伝染病といい、日本はもう温帯というより亜熱帯と言ってしまっていいと思う。
▼気候変動は確実に進行している。今年は冷夏だったが、地球温暖化は我々が酷暑に対して身構えるのを嘲笑うかのように、別の形で顕在化している。突然の雷、竜巻、局地的豪雨、超大型台風…広島の土砂災害もそのひとつだ。そして人災ではないにしろ、天災には必ず社会的側面がある。山崩れだから当然だが、被害は山裾に広がる造成地に集中した。
▼自然災害の研究者は、被害の大きかった地区の地層から、この地域に過去にも繰り返し土石流が発生していた事実を指摘する。あるいは東北の大震災で、津波をかぶって水が引かない被災地を眺めたお年寄が「潟に戻った」とつぶやく。これらは人間が、元々人が住むところではないところに居住域を拡大していったことを示している。
▼東北の大津波で、日本全国の海抜ゼロメートル地帯の地価は軒並みゼロになった。広島で被害の大きかった地区が土砂災害警戒地域の指定から外れていることが問題視されているが、指定作業なんか進むはずがない。自分の土地の不動産価値が下がるようなことを自ら認めるはずがない。買うときはなるべく安く。いったん手に入れば少なくとも自分の土地だけは上がり続けるものと信じたいのが人情である。
▼今回も災害弱者と言われるお年寄の犠牲が多い中で、このような人間の業に注目するやり方はまちがっているかもしれない。降って湧いたような天災に、かけがえのない家族の命を突然奪われ悲嘆にくれる人々を前にして、こんな風に考えるのはよくないことかもしれない。他のほとんど全ての人たちと同様、彼らもまた、ただささやかな幸福を求めただけである。人には誰しも自由に個人の幸福を追求する権利があるはずだ。
▼先週の休日から読み始めたジョナサン・フランゼンの「フリーダム」を読了。「コレクションズ」に劣らぬ傑作だ。

フリーダム

フリーダム

作中、主人公のパティが、夫の親友と一線を越える前に「戦争と平和」を読みきり、一夜にして人生を経験しつくしたような気になるシーンがあるが、言ってみればこれはアメリカ版「戦争と平和」、現代版「戦争と平和」、つまりここには現代米国社会の全てが描かれている。
▼個人が自由に幸福を追求する権利を守るためには、いかなる戦いをも厭わないと考える保守(共和党支持者)と、もっと大きな公共の福祉のためには、個人の欲求が制限される場面もありうると考えるリベラル(民主党支持者)。アメリカとは極端な話、世界や人類の他の多くの諸問題よりも、この個人的な二者択一の選択に重きを置く人たちの国のことである。
▼主人公のウォルターは、自然保護活動を生業にするガチガチのリベラリストだが、その活動費は石炭採掘会社から出ている。大学生の息子ジョーイは、父親に反発して共和党イラク利権がらみのバイトで法外な大金を稼いでいる。そのバイト先の会社が父親の組合活動を支える会社と同じという皮肉。この親子の口論のセリフが、小説のひとつの見所でもある。
▼完全な悪人はいない。誰もがよりよく生きようともがいている。強いて言えば、ジョーイが私淑するユダヤ人大富豪の娘、絶世の美女ジェナのセリフ「どうせ生きるなら勝ち組でいたい。他に選択肢はない」と考えているだけだ。そのためには戦争も厭わないというのもひとつの考え方だが、実際に戦争をするとなると、また別の倫理的問題も生じるだろう。さらにそれがイラクに民主主義をもたらす使命と考えるに至っては、余計なお世話どころの話ではない。いくらなんでも自分の幸福のために他人の幸福を犠牲にしてもいいという自由はない。
アメリカは巨大資源メジャーの利権のために、独立した主権国家に戦争を仕掛け消滅させた国であり、それが我々が自由主義、民主主義、資本主義のお手本として、教師として、兄貴分として、尊敬し、信頼し、キャッチアップしようとしてきた国なのである。それでも中国やロシアと組む方が抵抗感があるのは、我々の社会が完全に「自由化」され、我々自身も洗脳されているからだろう。
▼昨日は日曜もなく働きづめでほったらかしの妻からレイトショーデートの逆提案。近所のシネコンに「ルーシー」を観に行く。

妻は僕のナターシャ・ロストワであり、パティである。そして僕は妻のピエールでありウォルターでありたいと思うのだが、ちょっとムリかな。

月曜はガーリックトーストにブルーチーズを使ったサラダ。

火曜から木曜のうち二回はヨガカレーで金曜はアボガドディップにつくねハンバーグ。

そして土曜は再びヨガハヤシ。妻は完全に自由だが、害はない。