東京紀行

東京は二日目も快晴である。朝から暑い。妻と二人で芝公園を一周する。犬を連れて散歩している人が多い。見たこともない大きな犬だ。それから走っている人。これはどこでも増えている。ヨガをしている人もいる。逆さになって全く動かない。日本人の芸当じゃない。そういえば外国人がとても多い。それから通勤の人。通勤と健康を兼ねたウォーキング。

▼ここは本当に都心の都心。東京のど真ん中だ。森ビル、住友不動産などの高層ビル群を見上げて思う。これらのビルの総工費はいったいどれくらいなんだろう。賃料はいくら?想像もつかない。全くあるところにはあるものである。地方の駅前の雑居ビルの家賃が高くて、ファンのために店を続けるか否か迷う妖艶なママの悩みなんて、てんで関係ない世界だ。
▼昼休みには、これらのオフィスビルから首から身分証をぶら下げ、カーディガンを羽織った人たちが大挙して降りてくる。新橋あたりまで歩かないと周囲に適当なお店はない。代わりに歩道には弁当屋が並ぶ。かなり以前に、無許可営業ということで都は取締りに載りだすということだったが、どうなったのだろう。
▼校舎が直接通りに面して向かい合う御成門小学校と中学校。こんな都会の真ん中の学校に、いったいどんな子供たちが通うのだろう。見たところ周囲に民家は見当たらない。億ションヒルズくらいしか。近くの慶應大学と共に、将来このビル群への立ち入りを許される人たちが再生産される場所なのだろうか。
▼ホテルに戻り朝食をとってチェックアウト。小田急線で人身事故があったらしい。妻がiphoneでFBにアップした写真に次々に「いいね!」がつく。千疋屋→郊外の有名なパン家→下北沢の小劇場→俺のイタリアン→東京プリンスホテル。妻の友人たちの目には、あるいは東京を満喫するデートコースに映るかもしれないが、別のコースもありえたはずだ。
▼例えば千疋屋の生ジュースやカットフルーツは、お得なモーニングセットの倍以上する。移動は常にグリーン車、飛行機ならファーストクラスという人はいくらでもいる。僕らは一生LCCのエコノミー。ガラガラのグリーン車の横の満員の座席で電光掲示板を眺める。夜は立ち食いではなく腰掛けに座ってサーブを受け、宿泊は高級ホテルのスイート。小劇場かディズニーかは趣味嗜好の問題かもしれないが、小劇場か歌舞伎座かは、むしろ個人の自由な選択を越える問題かもしれない。

▼この世界は完全な階級社会だ。僕は東京にいた頃に、もっとこのあたりに通うべきだった。そうすれば社会勉強のつもりで土方のバイトなんかしなくても、もっと早く世の中の仕組みを理解できただろう。エロ本の編集や塾の講師や派遣事務や業界紙記者や墓石の営業や食品工場の夜勤の仕事は貴重な社会経験でもなんでもなく、自分に相応しいキャリアだと今はわかる。
▼二日目は妻の買物ツアーだが、新宿→吉祥寺→池袋とこれまでとは少し毛色の違うコースだ。妻が行きたいファッションビルにグーグルの案内に従って歩く。新宿駅から三丁目方面に向かうと、途中ビアホール「ライオン」があり、「新宿御苑」の案内板があった。僕の人生で最高の日、90年春の早慶第2戦の試合後、彼女とここを歩いたはずだがもう覚えていない。
▼中央線で吉祥寺に向かう。中野→高円寺→阿佐ヶ谷→荻窪と車窓を流れる景色に具体的な見覚えはないが、不思議に全体から受ける印象は当時と変わらない。僕は中野で映画を観て、空調のバイトで西荻の大きなビル全体の配線を受け持った。現場監督は僕が学生だと知っていたが、よく事務所に招き入れてねぎらってくれた。高円寺は大学をやめてからのマドンナの店があった。足繁く通ったが、いつも東西線でJRのホームに降りたことはない。
▼吉祥寺で妻の目的の雑貨屋を出ると井の頭公園に向かう。焼鳥の伊勢やはビルになっていた。デング熱が恐かったが、ちょうどお昼時だったので入口のファミマでアイスコーヒーを買って、ベンチに座って前日買ったパンをかじった。伊勢やも井の頭公園も学生の頃一度は訪れたはずだが、もう記憶にない。ベンチは月曜なのにカップルでいっぱいだ。昼間から缶ビールを飲んでいる。学生だろう。こんな青春もありえたのだ。
▼池袋の百貨店から高田馬場で途中下車し、二十数年ぶりにわが青春の街を探訪する。栄通りには「清龍」と「サテンドール」と「鳥やす」はあったが、「欣葉」は「鳥貴族」になっていた。夏目坂をのぼる。いよいよだ。僕が在京八年間のほとんどを過ごした界隈である。坂をのぼりきったところにあったコンビニと銭湯と居酒屋はなくなっていた。少し坂をくだったところにあった定食屋もない。二年ずつ住んだ下宿三軒も同定できなかった。
▼ちょうど講義の終わった学生の流れに乗って早稲田通りを高田馬場に戻る。一番手前の古本屋の軒先にある変色した筑摩世界文学全集は僕が売ったものだろうか。亡き友が連れてきてくれた「源兵衛」は健在だが通りの反対側じゃなかったかしら。早稲田松竹ってこんなとこにあったっけ?ところどころに面影はあるが、周囲が変わっているので違和感がある。妻が歩き疲れてインド大使館横の喫茶店で休憩。妻よ、たまには立場が逆でもいいじゃないか。

▼帰りの新幹線の時間ギリギリまで表参道の雑貨屋で妻がラストスパートした後、千代田線で大手町に向かう。柏に芝居を観に行ったあの日、東西線から彼女の待つ千代田線に歩いたコンコースを逆さにたどる。旅行会社の企画車輌なのか、隣はガラガラなのに僕らの車輌はディズニー帰りの客で満席だ。ふと見ると、電光掲示板に「住商シェールガス投資失敗で2700億の損失」のテロップが流れていた。