実地教育

月曜の夜から、今週はしっかり雨が降った。幸い雨勢が強まるのは夜になってからで、今のところ呼び出しまでには至らない。明日は冷たい雨になる。この雨が上がれば、しばらくは秋晴れが続く。初夏とともに一年で一番いい季節である。楽しみだ。
▼書類&見積生活も二週目に入った。誰か見ていたように、工事が薄くなると見積をたのまれる。なにもかも重なるよりマシだけど。さらに日曜の工事があるので休んだ気にならない。せめて平日は定時で帰るようにしている。日足が短くなったので、定時に席をたってもあまり違和感がないので助かる。おかげで完成図書がなかなか完成しない。
▼今日は夜の接待ではなく、昼の営業活動。社長が個人的にも懇意にしていただいている上場企業の総務部長さんが、新規のお客さんを紹介してくださるというので、お伴を命じられる。部長さんと紹介先の両方に、前日から高級菓子を用意する。挨拶して仕事になるなら苦労はしない。ここからがスタートだ。
▼三人で客先にうかがった帰りに部長さんが事務所に寄ってお茶を飲んでいかれた。大企業の人事を参考にしようと社長がいろいろ質問する。職責やノルマのプレッシャーやストレスから心身を病む人も多いらしい。いろんな部署でいろんな理由で通常の業務ができなくなった人と毎日のように面談しているという。
▼「うちは基本的に自由です。だからといってあんまり的外れなことされても困るけど」「30年以上仕事して、最近ようやく総務の仕事がどういうものかわかってきました。わかる頃にはもうやめる前ですけど」
静かな語り口だが、ひとかどの人物はみな似たようなことを話す気がする。テレビで見ても本で読んでもその意味するところは同じだが、やはり目の前で、そのセリフを実際に生きた本人の口から出てくると迫力が違う。
▼社長が質問する。「採用ではどんなところを見ますか?」部長が答える。「僕は今までの人生で一番困ったことをきくようにしています」エントリーシートには通り一辺のことしか書かれていない。ゼミやサークルやバイトでの失敗談とか。誰も自分に本当に不利なことは申告しない。それで「本当にそれが一番つらかったの?」と重ねてきく。するとポロッと本音がこぼれる時があるらしい。「例えば不登校の時期があって、その時が一番つらかったとかね。そういう事実があれば、残念だけど会社としてはもう雇うわけにはいかない。みんな隠そうとするわね」
▼聞きながら僕が今まで一番つらかったことは何だろうと考える。仕事で進退窮まったことは何度もあるはずだが、具体的に思い出せないからそれほど堪えてないのかも。やはり25年前の失恋か。あの時は大袈裟でなく半年間泣いた。いや、10年前妻に三行半を突き付けられた時か。妻が本気だと悟ったら、急に食べ物の味がしなくなって驚いた。
▼「あなたは何を勉強したんですか?」予期せぬ質問に不意をつかれた。「文学部です。フランス文学を…」と答えながら、何かの悪い冗談か笑い話のように思えて笑えてしょうがなかった。なんだか自分のことのような気がしなくて、それが自分のことだと思うとなおのことおかしくて、どうしても笑いを抑えることができなかった。社長はあきれていたが部長さんも笑っていた。
▼現場で作業員だけを相手にしていれば気を遣うことはないが、たまには外でそれなりの人と会って話をしなければ。人生の優先順位で気楽さを第一に考えるなら、西成のおっちゃんと変わらないだろう。妻の三行半のセリフは確か次のようなものだった。「あなたはいいお友だちもいるのに、なぜかそういう人たちの中で生きていけない人」もう50も目前だが、僕がこれまでそのような人間関係の中で生きてきたことは間違いない。
▼人生がこれから始まる上の子にも、特にいい大学に行ってほしいとは思わない。ただ、劣等感を味わうことになっても、プライドを棄てて自分より優秀な人の海に飛び込んでいかないと豊かな人生にならないことだけはなんとかして伝えたい。自分を成長させてくれるのは自分よりスゴイ奴だけだ。そして机上のどんな勉強も、生身の人間のインパクトにはかなわないのだ。

今日は新鮭のソテーにクラムチャウダー