心のままに

やけに暑いと思ったら、午後雨が降ったようだ。最近の天気予報の精度はスポットであたるほど正確だ。
▼週末に限っての工事である。人が休んでいる時をねらって稼ぐ。会社もいいところに目をつけた。これも一種のニッチ産業だ。若いうちは休日や休日の前の晩は遊びたいものだ。担当者には自分の遊びも子供の遊び相手も終わった中年をつける。いいように使われているが、まあ自分が生きていくためだ。
▼学校が休みの土曜日は、朝から遊びに出た子供たちが翌日も休みなので夕食をそのまま外で食べてくることが多い。おっと上の子は学校もない毎日サンデー状態だ。昨日も二人から早々に(別々に)妻に「ごはんいらん」メッセージが入り、先週に続いて妻とカフェ併設の書店に出かけた。妻は時間があればこのカフェでヨガの本をタダ読みしながらレッスンの想を練っているらしい。優雅なもんだ。

積読タイプの僕にしてはめずらしく、手元の未読本はわずかにリチャード・パワーズの「舞踏会に向かう三人の農夫」をあと1/4ほど残すのみである。感想は二つ。第一次大戦前後の歴史に明るければ、もっと楽しめたかも。高校の時もう少し世界史を勉強しとけばよかった。もうひとつ、この本が出た当初に読んでいれば、もっとすんなり読めたかも。写真や認識についてのポストモダンな語り口には、もう素直に感嘆できない自分がいる。
▼ともかくこんな状態で書店をウロウロするのはかなり危険だ。案の定、先週偶然みつけた蓮実重彦の「ボヴァリー夫人論」、新刊紹介の中では一番読みたかった松家仁之の「優雅なのかどうか、わからない」、初出で気になっていたものが文庫化していた赤坂真理の「東京ブリズン」の計3点、しめて一万円をつい大人買いしてしまった。
▼映画「アマデウス」のサリエリのように、フロベールと交友のあった同時代の作家マクシム・デュ・カンを料理することで、あぶり出しのようにフロベール像を浮かび上がらせる「凡庸な芸術家の肖像」を読んだのは、まだ東京にいた頃のことだ。夏目漱石論、小津安二郎論と併せて、僕が最も影響を受けた文芸評論家の一人である。
▼その後約四半世紀、東大総長の職務が忙しかったのか、バブル期に大流行した構造主義批評が下火になったせいか、氏の活躍をあまりきかなかった。それとも単に僕が都落ちし、結婚、子育て、転職、引越と生活に忙殺されて気づかなかっただけだろうか。ふと文芸批評の最新の潮流はどうなっているのだろうと思った。確かにその手の情報は入ってこなくなった。いずれにしろ氏のライフワーク、フロベール論である。楽しみだ。
▼今日は毎年恒例のジャズライブ。朝だけ現場に行って説明するつもりが、結局帰ったのは昼前。危うく去年の二の舞になるところだった。今年は御年とって72才の日野皓正が出演。とても72には見えないが、袖から出てきた時はなんだかアラーキーのように見えた。ドラえもんのポケットのようにパーカッションやらマラカスやら法螺貝やら次々に取り出してやりたい放題の好き放題。
▼バックは子供より下の世代である。ベースとピアノを手で制し、ドラマーにセッションを挑む様子はイジメにも見えた。震災復興のために作ったという「ネバーフォゲット3.11」もピンとこなかった。しかしトリのゴードン・グッドウィンのビッグバンドとの共演でも全く意に介さない感を出していたから、この人こういうキャラなのかもしれない。なんいしろ、彼の音楽活動もライフワークには違いない。
▼出演者は御大ヒノテルの他にボーカルのジラ・シンバ(ライオンキングか)、トリはグラミー賞二回受賞のゴードン・グッドウィン。といっても僕は知らなかった。知ってる曲はガーシュインだけ。疲れているせいか、よほどキレのいい曲でないと大音響の中でもすぐウトウトしてしまう。今年が特別というわけじゃない。去年の綾戸智絵と熱帯、その前の小曽根真だって同じことだ。さらにパンフをいくら遡っても、自分が年に一度タダチケでジャズライプに行く人であることを再確認するだけである。
▼終演後、妻と大ゲンカして、また仲直りして韓国料理を食べた。

これでこの秋のイベントはオシマイ。ライフワークはムリでも、マイフェイバリットシングスにムリはしたくない。僕はジャズが好きじゃないのかも。次はモーツァルトの歌劇を観に行きたいね。