恋愛の作法

今日、一気に秋の空気に入れ替わった。空が高い。抜けるような青空だ。晩秋である。甲高く鳥の啼く声が耳につく。
▼先日なんとなくNHKの俳句教室を見ていたら、講師の方が俳句用語を解説しておられた。俳句には「本意」と「本情」という言葉がある。例えば秋の季語「鹿」。一年中いる鹿が、どうして秋の季語なのか。それは鹿が秋に物悲しい声で鳴くから。つまり秋の季語として「鹿」という言葉が使われたら、俳句詠みなら鳴き声を連想する。そのことを知っていないと俳句にならない。これが「本意」。
▼「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」日本では万葉の昔から、鹿という言葉はこの意味で使われてきた。しかしあまりにも長い間型通りに使われてきたため、実際に鳴き声をきいたことがなくても、鹿(の鳴声)=物悲しい=秋という連想ができあがってしまった。それでは鹿の句を本当に理解したことにならないのではないか。という問題提起をしたのが松尾芭蕉である。これが「本情」。
▼これはなんにでも通じる物事の本質だと思った。例えば仕事において、それぞれの職種に固有の仕事の進め方がある。どんな自信家も、まずは我流ではなくそのノウハウを覚えるのが先決だ。先人たちの試行錯誤の上に培われてきた技術を身につけるまでは一人前とはいえない。しかし仕事を覚えればそれで終わりではない。ルーチンワークをこなすだけでは本当の意味での仕事とは言えないことは誰でもわかる。
▼恋愛においても同じことが言える。逆からたどってみよう。本当の愛、真実の愛(本情)にたどりつく前に、ある程度恋愛のスキル(本意)が必要になるのではないか。それは何もジゴロやカサノバでなければ恋愛する資格がないという意味ではない。ごく普通のコミュニケーション能力、すなわち人を素直に信頼する心があれば事足りる。ところが心の目がくもっていると、目の前の相手が発信する簡単なサインも見逃すことになる。
▼先日、火事で消失した神田やぶそばが新しく建て直されて再開したというニュースが流れていた。そのお店の佇まいが、24年前、彼女と上野の西洋美術館に「ブリューゲル展」を観に行った時、お昼を食べたお蕎麦屋さんに似ていたので、もしやと思ってパソコンで調べてみた。その日は一日よく歩いたが、淡路町にある本店はさすがに無理がある。浅草の並木藪蕎麦もない。池ノ端か上野藪蕎麦なら説明がつく。美術館を出た僕たちは、上野公園から蕎麦屋に入り、蕎麦屋を出てアメ横をひやかして御徒町駅から山手線に乗った。
▼二回目のデートだった。最初のデートの後、幾日もたたないうちに彼女から誘いの電話があった。待ち合わせの場所に、彼女は真っ白なブラウスで現れた。目の覚めるような萌木色のスカートをはいていた。「ここのおそばおいしいのよ」と言いながら、彼女は先に暖簾をくぐった。アメ横を並んで歩いていると、だみ声の客引きにひやかされた。「カノジョものすごくうれしそうな顔してるよ」
▼アカの他人にわかることが、どうして僕にわからなかったのだろう。これら全てのことが、彼女の気持ちを雄弁に物語っていたはずなのに。それでも僕は、あらゆる目に見えるサインを払いのけ、その向こうに真実の愛を探していた。瞳の奥底に、彼女の本当の気持ちを読み取ろうとした。そうしているうちに、瞳から輝きは消えてしまった。
▼びいと啼く尻声悲し夜の鹿
「本情」を主張した芭蕉の句である。この句のよさは、僕にはわからない。なぜなら僕はその前の段階の、俳句の約束事がわかっていないから。
そよ風に揺れるスカート萌木色
ブラウスの真白き色に目を伏せる
秋の空溢るる涙拭きもせず
その年の秋、僕は鹿になった。

昨日は鶏のうま煮にレンコン炒めにタマゴサラダにもやしのナムル風。