ただの人の夢

立冬を過ぎても、入道雲が立つほどの陽気である。Tシャツ短パンでも充分いける。これだけ暑いんだから雨になるわけだよ。
▼昨日は午前中、逃げ腰で客先を三件回る。相手の一人が「あなたの立場もわかりますよ」と言ってたから、僕の態度なんてたぶん丸わかりなんだろう。お昼にいったんうちに戻って着替え、午後から恒例の一泊研修会。普通なら当日は車の中で背広に着替え、翌朝は同部屋の人がまだ寝ているうちに宿を出るところだが、今日も現場はない。こんなことはここ十年来初めてだ。
▼研修は担当事業所のトップによる今後の事業所の方針について。大勢の聴衆の前でスライドを用い、わかりやすい話を持ち時間ピッタリで終える。こういうのも訓練とはいえ、感嘆するしかない。パワーポイントの資料づくり(これは部下がやっているのかもしれないが)も含め、社会人としてのスキルが違いすぎる。
▼彼がどうかは知らないが、この事業所の管理職のほとんどは、地元の工業高校を出てこの世界的なメーカーに就職し、海外事業の立ち上げなどを経験して管理職になっていく。こういう人たちを前にすると、元々のポテンシャルの差を痛感せざるをえない。少なくとも何を学ぶかはっきりせずに、ただ大学に行っても何の意味もない。
▼いや、むしろ実力がない人ほど世を渡るパスポートとして学歴が必要なのだ。正直僕も中途でやめたとはいえ、そのネームバリューの恩恵に与っていると強く感じる。こと仕事に限らずいろんな場面で門戸は広い。そこで実際に採用してみて、つきあってみて思ったほどの人物でないことに失望と落胆の声が漏れる。「○×なのにそんなこともできないの?」「オマエほんとに○×なの?」
▼二次会まで参加して、ひとわたり挨拶して引き上げる。普段事業所で顔を合せている人に、懇親会で今さら挨拶でもないだろう。世間話くらいできないでどうする。これも毎年のことだが、部屋に戻っても同部屋の人と飲み直すでも話すでもない。僕はそんなにつまらない人間かな。少なくとも誰からも特に重要視されていないことは確かだ。つまりはVIPではないただの人。
▼部屋に備え付けのテレビをつけ「ドキュメント72時間」を見る。今回は山手線徒歩一周の旅ということで楽しみにしていたが期待はずれ。同じ移動観測なら環状16号線の回の方がずっとよかった。ロケ班は、渋谷のNHKスタジオを夕方6時に出発して山手線に沿って時計回りに一周する。
▼まずは渋谷でハロウィンコスプレのフリーター女子二人組。続いて原宿でカットモデルを探す美容師の卵二人組。終電過ぎの新宿で路上ライブ前の41歳歌手志望。朝方の高田馬場日本語学校ベトナムとサウジの留学生。途中すっ飛ばして次は上野駅の人足集めで一晩粘り、朝は御徒町駅ダンボールおじさん。再びすっ飛ばして有楽町駅で夜勤明けの配管工。さらに三日目も昼をすっ飛ばして夜の田町駅で24才歌手志望の若者。そしてサブタイトルは「夢はありますか?」
▼どうやらロケ隊は昼間寝て夜ロケを行ったようだ。面白くなかったのでよく覚えていないが、新大久保、池袋、秋葉、東京、品川などを素通りしたのはいただけない。上野と御徒町は浮いていた。新宿と田町もかぶっている。寝ずにロケしろとは言わないが、立寄る駅と時間帯が違えばもう少し面白いものになったかもしれない。この番組のロケは初日の18時に始まり三日目の同時刻に終わる。その制約があるなら、所要時間を計算してスタート地点を変えるとか、せめて逆回りのケースをシミュレートするくらいはしてほしかった。
▼いずれにしろこういうのはもういい。こういうのは僕のよく知っている世界だ。大多数のただの人が自分のこととしてよく知っていることだ。「不安しかない」と言いながら渋谷の雑踏を仮装して歩くフリーターも、仲間とガードレールに腰掛けて道行くモデルを探す美容師も、バイトで生計をたてる歌手志望も、人足集めもダンボールひろいも、時間をやり過ごすだけの人生をどうすることもできない夜光虫だ。
▼そういう人の声をすくうことも必要かもしれないが、それはテレビのやることじゃない。テレビは「笑ってコラえて」の小野裕史さんのように輝いている人を紹介すべきだ。NHKなら「仕事の流儀」の五嶋みどりとか「SONGS]の中島みゆきとかNスぺで錦織Kの単独インタとかをやればいい。
▼20代に頓着ない生活を送っていた30才の配管工は、今は結婚した友だちが「月の小遣い3万円だよー」と嘆くのをむしろ羨ましく思う。「まずはそこが目標」と言って地下に消えていった。人生の浪人中の上の子も言った。「普通に働いていい人を見つけて家庭を持つだけじゃいけんの?」現代は、そんなささやかな夢すら実現が難しい世の中かもしれない。だがその目線の低さが、当たり前のことを難しくしている面もある。
▼かくいう僕も大いなる野望を抱いて上京した割に、孤独に耐えきれず、最終的には飲んで酔う度に「幸せな家庭を持つのが夢」と方々で言って回っていたようだ。都落ちしてほどなく結婚した際、東京時代の数少ない知己、自称三千歳の魔女とSMの女王様からのメッセージカードには、偶然にもそろって「夢がかなってよかったね」と書かれていた。

今日は鮭と手羽焼きにレンコンサラダに中華スープ。ただの人の夢としてはこれ以上ない形で叶ったと言える。