年をまたいで

みなさん明けましておめでとうございます。本年もボクログをどうぞご贔屓に。さて、今年も年末年始の模様を駆け足で振り返っておこう。2014大晦日は穏やかな晴天のスタートとなったが、下の子を連れて新幹線を下りると雨が降っていた。迎えにきた妻と地元のデパートで買物して妻の実家に着く頃には冷たい風が急に強くなった。
晦日の夜は早々に子供たちが友だちと食べるというので、どうするか迷ったが、結局近所のスーパーでビールとアテを買込んでひとりテレビを見て過ごす。この十年、地元にいる時間が少しでも長くなるように一本でも早い便に乗ろうとしたものだが、夜中に着いてもその日は寝るだけ。待っている人がたいへんなだけなので翌日余裕をもって帰ることにする。
▼連休工事中の習慣で早朝3時には目が覚めミッドナイトシネマの「めぐりあう時間たち」を見る。話題になったこの映画は見ていないが、原作は読んだ。表紙はラファエル前派の画家ミレーの有名な「オフィーリア」。入水するバージニア・ウルフのイメージとして、これ以上の装丁はない。
▼小説の舞台は三つ。ひとつは1923年のイギリス。神経症の転地療養中に「ダロウェイ夫人」を執筆する作家バージニア・ウルフ。二つ目は1951年のロサンゼルス。「ダロウェイ夫人」を読みながら自殺願望を抱く主婦ローラ。最後に2001年のニューヨーク。エイズの小説家リチャードをケアするクラリッサ。彼女のニックネームは「ダロウェイ夫人」である。
▼演ずるは、それぞれトム・クルーズの元妻ニコール・キッドマンジョディ・フォスターに次いで「ハンニバル」で二代目クラリスを演じたジュリアン・ムーア、そしてハリウッドを代表する性格俳優メリル・ストリープ。三人の中では、やはりニコール・キッドマンがピカイチ。ジュリアン・ムーアは日本でいえば意志のある根岸季衣メリル・ストリープは逆に気の弱い室井滋という感じ。僕はどうも演技派女優というのが苦手だ。
▼小説の中のダロウェイ夫人を生かすか殺すか迷いながら自殺未遂を繰り返すバージニア。四才の息子を残して自殺するか迷った末、出奔するローラ。自分のケアに依存するクラリッサを解放するためアパートの窓から身を投げるリチャードは、そのローラが捨てた息子だ。三人のダロウェイ夫人の生きざまが時空を超えて重なりあう。小説でも映画でも、「時間」をうまく描ければ成功したも同然だ。
▼小説(映画)の主人公たちが抱える生きにくさとは何だろう。療養先に子供を連れて遊びにくる姉とバージニア子宮筋腫の手術前に自宅に立ち寄った親友とローラが交わす強烈なキス。エイズのリチャードとクラリッサが交わす弱々しいキス。我々が生きる社会は、そう信じられているほど性の自由度は高くない。誰もが自らの性的嗜好を隠し、あるいは自分自身に対してもそれをごまかしながら、社会通念から逸脱しない範囲での性的役割を演じている。
▼ひとり残る上の子に、出がけにテーブルの上にお年玉を置いてきてやった。それをしっかり見ていた下の子にもやらないわけにはいかない。なんだかんだいって子供にお年玉をやるのは初めてのことだ。これまでは子供たちが親戚から頂いたお年玉を妻が集金していた。子供を自分が育ってきたように不自由なく育てるのはたいへんなことだ。
▼両親が年末年始は温泉宿で過ごすというので、今回はずっと妻の実家暮らしである。

晦日はブリ刺しにブリ大根にデパートで買ってきたお惣菜。

元旦の朝はお雑煮。今年も広島のお義母さんの妹から立派な牡蠣が送られてきた。

そしてお昼はセブンイレブンのおせち。質量ともに申し分ない。近所の神社に初詣に行って、夜はすきやき。
▼2日はデパートの初売で親子で財布を購入後、午後から親友宅で恒例のウチノミ。今年は母校の初稽古が道場の改修中で中止とのこと。OB会の活動自体は活発で、忘新年会、春の温泉旅行、夏のビアパーティと年4、5回は集まるという。今年は会長の喜寿祝いとその返礼の会があり特に多かったらしい。大学でも柔道を続けた彼には大学のOB会もある。僕より随分おとなしい感のある親友ではあるが、これだけでも僕よりずっと交友関係は広いと言える。一抹の寂しさを覚える。
▼3日は下の子と待望のラーメンめぐり始動。一軒目は僕が高校の頃通った名店の弟子筋ということで期待したが今一歩。簡単に師匠を越えられたら苦労はないね。でも往時の雰囲気を思い出すことはできた。そのままIKEAに行って、あまりの安さにホットドッグやカレーなど食す。

帰りに再びデパートに寄り早くもお土産を購入。夜は前日酔い潰れて食べ損なったカキフライ。広島の牡蠣を食べ尽くした。
▼4日の最終日にようやく実家に挨拶して昼食を共にし、今回の帰省はおしまい。

比較的ゆっくりできたはずだが、過ぎてみるとあっという間だ。今こうしてブログを書いていると、つい数日前のことなのに去年のことが遠い昔のようだ。そして戻ってきてみると、地元での正月休みも過去のことに思える。時間はまさに滔々と流れる水のようだ。妻の両親はそう変わらないが、この十年の間に僕の両親は随分年をとった。人の上に流れる物理的な時間は同じでも、年の取り方は人それぞれである。いずれ有限には違いない。だからこそ与えられた時間を懸命に生きなければという思いを新たにする正月であった。