時間感覚

6日の大雨の後は冬らしい天気が続いている。しかし陽射しは暖かい。今が寒のピークなら、今年はやっぱり暖冬かも。新年にもかかわらず暗い内容の投稿が続いていたが、ここらで気を取り直すべきなのかもしれない。
▼実家から戻って、年賀状のあまりの少なさに落胆していると、若い友人から「年賀状がこない。友だちを大切にしろ」とメールがあった。「どうしていいかわからない。人格障害適応障害かな?」と返すと、「両方だ」と返ってきたが、涙が出るほどうれしかった。なかなか明るくならないな。
▼年賀状を出さなくなってかなりになる。当然届く年賀状も目減りする。逆に子供たちは成長するにつれて増え、とうとう家族で僕が一番少なくなってしまった。出さないのは妻も子どもたちも同じだから、出さないことが理由でもない。元々それだけの関係だったのだろう。同世代のそういう人は、こちらが出さないと翌年にはもうこない。はっきりしたものだ。互いに負担なだけなら仕方ない。ただ年配の方からこなくなると大丈夫かなと心配になる。
▼年賀状がこなくなった人の中に、業界紙記者時代に取材して記事を書かせてもらった方がいる。結婚当初のことだから、もう20年近く前のことだ。当時でもかなりの年配だったから、もしかすると亡くなられたのかもしれない。しかし数年前まで欠かさず手書きの年賀状を寄越してくれたのは意外だった。僕の書いた記事を気に入ってくれたとしか考えられない。こういう小さなことが、生きていく上で心の支えになる。
▼その業界紙の事務員の女性からも数年前まで年賀状が届いていた。その新聞社は社長以下営業2、事務員1という小所帯で、欠員になった記者を募集していた。僕は全くの世間知らずで、そこで初めてブラックジャーナリズムの実態を目の当たりにする。それは親会社の名前を冠した新聞を持って関連会社を回り、広告の出稿を迫る、要するに業界ゴロである。
▼新聞社にもいい時期はあったらしいが、重厚長大産業の斜陽化とともに衰退し、バブル崩壊後にその手の業界紙が生き残る余地はなかった。僕が在籍したのは末期も末期。四か月の間に見開きのタブロイド版を3回出して、あえなく永遠の休刊を迎えた。残念だが、妻子ある身で給料が出るあてのない所で頑張り続けるわけにはいかない。
▼なんでそんな所に入る気になったかというと、面接に行った時の事務員が女優の清水美砂そっくりの美人だったからである。その彼女が僕の記事を褒めてくれるものだから有頂天である。社長の自宅で催された忘年会の帰りに彼女を誘って二人きりで飲んだ。「気分が悪くなった」という彼女をタクシーでうちまで送った。この程度の武勇伝なら誰にでもあるだろう。それ以上のことは誓って何もない。
▼彼女は当時23、4の高卒のOLで、新聞社の先行き如何に関わらず、春から地元の公立大学に入り直すと言っていた。つきあっている彼氏に「今さらそれはないだろう」と反対されていると話していたが、彼氏の気持ちもわからないではない。僕も口には出さないが反対だった。関係ないけど。
▼その後僕が墓石屋と豆腐屋に勤めていた6年の間に、少なくとも彼女は四年制の大学を卒業したことになる。そう考えれば上の子にもいくらでもやり直す時間はあると思うのだが、今の彼にはとてもそうは考えられないのだろう。それは上の子だけでなく、当時の彼女の彼氏も僕も同じだ。彼女だけが人生を長いスパンで考えることができたわけだ。
▼新聞社の解散後あまり間がないうちに、一度だけ彼女から「社長が亡くなった」と連絡があった。その後も年賀状のやりとりだけは続き、やがて結婚式の、翌年には赤ちゃんの写真がプリントされた年賀状が届いた。ご主人が当時の彼氏なのかどうかはわからない。「毎年年賀状のやりとりを楽しみにしています」と書いてあったが、やはりこちらが出さないとこなくなった。
▼力を入れていた物件の受注がほぼ絶望的になって気落ちしたせいか、20時過ぎにはウトウトするも寝つけず、再び起き出してドキュメント72hourを見る。今日は「出産ラッシュ〜日本一の産院」。夫の仕事が安定せず出産が遅れた妻の「楽することが幸せじゃないと思うので。子供のために苦労したい」あるいはできちゃった結婚の若い妊婦の「親とか職場とか周りの反応は気になったけど、やっぱりうれしいが一番」など出来過ぎなセリフのオンパレードだったが、出産とはそのような場なのだろう。うちの子どもたちのそれもつい昨日のことのようだ。

水曜は絶品カラアゲ。

木曜は菜の花サラダに肉炒めにクラムチャウダー。妻の手料理は早くもエンジン全開である。