僕は年賀状(涙)

ようやく寒気が緩んだと思ったら天気は下り坂。明日は雨になりそうだ。冷え込んでもそこまで寒くもないが、緩んでも冬。そこそこ寒いことに変わりない。正月休みはニュースが大寒波みたいな言い方するもんだから、寝正月と決め込んだらたいしたことなかった。例年になく余裕があって、もっといろんなことができたのにと悔やまれる。情報は過剰反応せず、目安程度にきくのがいい。
▼年賀状を出してくれた人に返礼を書いた。こちらの近況がわかる写真に一言添えて。十枚作って二枚余ったので、連絡が途絶えている地元と東京の友人に一枚ずつ出した。ホントはそれぞれもう一枚ずつ出したい人がいたが、そうすると欲が出る。あの人もこの人も清水美砂もとキリがない。そこで、毎年きた人だけと決めてかかると、大切にしたい人に届かなくなる。こういうことはそういうものだ。どこかで思い切るしかない。
▼年賀状の効用は、手で書くことにある。自分用の手帳やメモ書きはともかく、年賀状がなくなれば、現代社会において人目に触れることを前提に手書きの文字をしたためる機会はもうないのではないか。だから宛名が印刷なら一言添えるべきだ。僕のように枚数が少ない人は、逆に宛名だけ手書きでもいい。手書きの文字さえ見れば、その人のたいていのことはわかるからだ。裏表全て印刷なら、それは年賀状の形をしたDMである。
▼年賀状を書く度に、自分の下手さ加減に嫌気がさす。字面に限らず文面も、何もかもである。ペンは妻が好きな細身のものを使うが、僕には向いてない。これでは上手く書けない。高い安いではない。妻はこれが気に入っていて、上手に書くのだから。要は自分の書きやすいペンを決めて用意していないことが問題なのだ。生涯、そういう方面に注意を払わない人がいる。僕もそうだ。道具に無頓着な職人のようなもので、ろくな人間じゃない。
▼内容についても満足にはほど遠い。前の人に引きずられて似たような文面になる。書き始めて「しまった」と思うがもう遅い。枚数を決めて作っているから書き損じにはしたくない。紋切型を避けようとして、かえってとってつけたような文章になる。印刷された背景と書き加えられた文字のバランスも気に入らない。一度にうまく書けないなら下書きすべきなのだろうか。しかしただ書き写すだけでもまちがえそうだ。
▼これらのことについては、作家太宰治の次のような逸話がある。彼は書き損じをしなかったらしい。文学館に残る自筆原稿はきれいなものだ。涼しい顔で淀みなくペンを走らせ、訂正も追記もない。彼自身そのことに矜持を持っていたようだ。物書きたるもの、いちいち呻吟してどうする。想念がペン先から糸を引いてそのまま文字になる。まるで魔法だ。これが芸術であり才能である。
預言者ムハンマドを揶揄し、イスラム過激派に襲撃されたフランスの週刊誌が、発行日の今日再び風刺画を載せた紙面を発行した。逆境を逆手にとり「表現の自由はテロに屈しない」という形で6万部を500万部にして全世界に売り切った。一部100円にしても5億である。週刊で普段の6万部発行なら100円×6万×4週で2400万。広告が倍あっても月の稼ぎは最大4800万。一号で一年分稼いだ計算だ。この状態がしばらくは続く。
▼編集会議の場で殺害された11人の他にも逃げた社員やイラストレーター、フリーの記者もいるだろうが、おそらく関係者も含めて50人が食うのもやっとの規模だ。週刊6万部のタブロイド紙とはそういう数字である。僕がやっていた業界紙の10倍、エロ本出版社の1/10といったろころか。どちらかといえばブラックジャーナリズムといった方が近いだろう。
▼この「シャルリ・エブド」を「噂の真相」になぞらえ、テロを「表現の自由」に対する挑戦と捉えることに違和感を覚えるネットコラムを見かけた。「噂の真相」も「タブーなき雑誌」を標榜し、編集者のほとんどが暴行にあった経験があるような雑誌だが、それを「言論の自由」と言うのは気恥ずかしいような雰囲気があった。そこに日本と欧米の文化の違いを見出すというものだ。
北朝鮮をパロッたお下劣な風刺映画といい、全国紙支局長による隣国元首を貶める品位のないゴシップ記事といい、この「シャルリ・エブド」といい、「表現の自由」を持ち出すのが気が引けるような恥ずかしい例ばかりだ。いずれも外圧に抵抗する形を人為的に拵えなければ誰も目もくれないようなレベルのものである。外的条件が自由だからといって、我々は必ずしも自由に書けるわけではない。内的要因によって、それは少なからず制限されている。
▼手書きの私信を書いてみればそのことがよくわかる。自己の矮小さに絶望する。自由のために世界と戦っている気になれるなんてホントにオメデタイ人たちだよ。

月曜は焼き餃子にカニサラダ。

火曜は豚キム丼。

今日は鶏南蛮にミルフィーユ鍋。妻のウチゴハンは自由自在である。
▼弟の誕生日なので電話してみた。シーパップの話で盛り上がった。彼は7年続けて1年前にやめたそうだ。保険適用とはいえ月5千円、年6万の負担は大きい。それでも対症療法なのでやめたらなんにもならない。6万×7年=42万捨てただけである。その三倍の金が○○に流れる仕組みだ。全国何百万の無呼吸患者が新素材カーボン繊維開発の原資を支えている。我々は人柱だな。