これが私の生きる道

雨が多くなってきた。先週の日曜に降って、木曜が雨で明日も雨。さらに一日おいて火、水と雨模様。今日で2月も終わり。名実ともに春の到来である。
▼相変わらず怒涛の年度末工事の日々である。もうひと月以上休んでいない。毎週土曜は7〜8か所、述べ50人の作業員を切り盛りする。日曜でこの半分。平日でも10人は動く。これだけの人間が動いていると、さすがにほったらかしにはできない。平日も現場に来ないわけにはいかない。勢い事務処理は夜になり、毎晩残業が続く。正直ブログの更新どころじゃない。
▼そんな中、担当事業所の構内で、ちょっとした物損事故があり、再発防止策を提出することになった。ところがこれがすんなり通らない。担当者に三度ダメだしをくった挙句、四度目に「これじゃうちなら○×(デキが悪い若い社員の名前)レベル。これ以上よくなりそうにないし僕も忙しいから課長のとこ直接持ってって」と言われ、課長のとこに持ってくと案の定ダメだった。
▼この忙しい時に余計なことに忙殺されるのも痛いが、50を前にして自分の半分くらいの年の担当者に匙を投げられるなんて思ってもみなかった。僕自身、引き合いに出された○×のデキの悪さには常日頃悩まされていただけにショックは大きい。論理的な思考やパワーポイントを駆使したレポート作成能力と、いわゆる文芸(書いたことないけど)とは別の物とはいえ、ある程度自分の書いたものに自信はあったのだが、ここまで通用しないとは。
▼随分前に「あきらめない」という内容のエントリを投稿したことがある。人間吠えたり咬みついたりモガいたりしているうちはまだ幸せなのかもしれない。個人の努力や組織的な訓練の差はあるにしても、無為に過ごした時間も含めて「その人」なのだ。つらくても一度、僕は自分を冷静に評価する時期にきている。その上でなお、歩を前に進める気力が僕には残っているだろうか。でもそこからが本当の、等身大の僕の人生だ。
▼子どもたちは相変わらずマイペースに過ごしている。特に上の子は自分の置かれた状況がわかっているのかいないのか、いたって呑気なものである。怒鳴ろうがひっぱたこうがあわてることを知らない。幼少期に植え付けられた安心感は、ちょっとやそっとのことでは崩れない。基本的に人を疑うことを知らず、人生を肯定的に捉えている。それは下の子も同じ。僕たち夫婦の生きる姿を見てそのように育ったのだとしたら、親冥利につきるというものだ。
▼水曜の夜は企業スポーツの後援会の会合。担当事業所の管理職がそろい踏みするとあって、忙しい中参加。構内でも顔を合せる上、二ヶ月に一度この手の会合があるので、今さらビールを注ぎながら「○○の××です」もないが、それ以上話がない。昨年末の研修会の宴席で隣になり、父親の勤務先が同じ関係で、偶然1年もいなかった小学校の同窓だったことが判明した某課長が「4月付で本社に異動になって」残念。時間がゆるせば個人的に「シングル会」ならぬ「シングルモルト会」を開きたい。
▼散会後、某部長に誘われ二次会に流れる。持ち合わせがない上、連れていかれたのが靴を脱いで上がる変わった趣向のスナックで、自分の足の臭いが気になって飲んだ気がしない。トイレに行くフリしてコンビニに走り、お金をおろして事なきをえたが、妻に持ってきてもらうかダメなら社長に電話しようかとまで考えた。全くいい年して何やってんだろ。いつ何があってもいいように準備できないならお客さんの前に出ない方がいい。
▼僕が話相手に不足なのか、部長が女の子相手に熱く語っている。「管理職の要件ってなんだかわかるか?寛容だよ。懐の深さっていうか度量の広さっていうか。人を決めつけないで、きちんと相手の言い分を聞いて、いいところを伸ばしてやる…」部長もいいことを言う。僕にはない資質だ。僕には上司も部下もいないはずだ。器量が小さすぎて人間関係を切り結べないのだ。
▼二人で焼酎のボトルを一本あけて解散。「また来ます」とママにお愛想を言うが、靴を脱ぐシステムが改まらない限り二度と来ることはないだろう。まだ電車のある時間に終電で帰る。前回の会合に引き続き、妖艶なママの店の灯りが消えている。体調でも悪いのだろうか。光のない二階の窓を見上げしばし佇んだ。レノンのマスターのこともある。心配だ。
▼今期三度目のピークの今日は、さすがに直帰のカーラジオで、懐かしい声を聴いた。デビュー15周年にベストアルバムを出したラブサイケデリコのクミだ。僕がラブサイケデリコを聴いていたのは、こちらに来る前、彼らがデビューして三年ほどの間に出したアルバム三枚だ。それから越してきて十年以上、耳にしていなかった。この時間感覚が不思議な気がする。
▼ラブサイケデリコは、ボーカルクミの限りなくネイティブに近い英語の歌詞の中に時折日本語が混ざるのが特徴の日本のグル―プだ。似たようなタイプに佐野元春がいたが、英語と日本語の比率が全然違ってラブサイケデリコの方が断然カッコいい。でもなによりクミの声がいい。ラジオのトークだとそのことがよくわかる。
▼そのクミが最も影響を受けたのがボブ・ディランだ。インタビュアーに「ディランのどこがいい?」と聞かれ、クミは「やっぱり歌だよね」と答える。「曲も歌詞もいいけど、やっぱり歌がいい」。彼女は声とは言わなかった。曲でも歌詞でも声でもなく歌。感動は分析した結果ではない。彼女がまず何に感動したのか、彼女の言い方が彼女の原体験を表している。
▼僕とひとまわり違う彼女が、大学に入学して初めて聴いたディランの歌に衝撃を受け、自分の生きる道を決める。高校で仲間がディランにハマるのを見て、僕はもう遅いと感じたのではなかったか。ディランはまだ生きている。感動に遅いも早いもない。遅いか早いかではなく好きか嫌いかだろう。下らない人生だ。ウチゴハンもたまった。