寒の戻り

よく雨が降る。ほとんど一日おきである。雨と雨の間は春の陽気だったが、最後の雨がとてつもない寒気を連れてきた。この寒さが過ぎれば、じき桜もほころび始めるだろう。さて、久しぶりにブログを更新してみようか。
▼子供たちにも新しい季節が訪れる。上の子は4月から専門学校生だ。行きたい人は誰でも入れるのに、妻に「受かった」と何度も合格通知を見せるらしい。人なみに祝福してもらいたいのだろう。確かに門出にはちがいない。下の子は高校受験を終え、あとは発表と卒業式を待つばかりだ。初めてではないせいか、上の子の時ほど気にならない。それは妻も同じである。
▼子供といえば川崎市中1殺害事件。あらゆる事件は社会を映す鏡だが、この事件には現代日本の実情が如実に現れていると思う。まず川崎という土地柄。山谷、西成と並ぶ日雇い労働者のメッカだ。殺された少年が両親の離婚を機に、自然に恵まれた壱岐を離れ、日本を代表するドヤ街に移り住まなければならなかったのが第一の悲劇。
▼だが壱岐も彼の生まれ故郷というわけではない。少年が五歳の時、家族で移住した土地である。離婚した元夫が漁師を志し、過疎の島のIターンに応募したという情報に接して、僕は少なからず驚いた。なぜなら結婚後、僕もまた田舎暮らしに憧れた時期があったからだ。それはエコライフや志というものとは何の関係もない、ただの現実逃避である。
▼こうして無責任で経済力のない父親のデタラメな行動により、子沢山の母子家庭という悲惨な状況が現出する。看護師の母親は五人!の子供を抱え、朝から晩まで働きづめだったに違いない。親がかまってやらなければ、子供は自分で自分の居場所を見つけてくるものだ。少年が親代わりを求め、年上の不良グループに吸い寄せられるのにたいして時間はかからない。
▼一方、加害者側の少年たちの境遇も似たようなものである。彼らはいずれも川崎という日本のスラムのストリートチルドレンだ。被害者の母親は「なぜあの時もっと強く引き止めなかったのか」と嘆くが、明確な根拠のない規律を強制できるのは、家庭が正常に機能している場合に限られる。「夜中に外出するもんじゃない」も「人を殺してはいけない」も共に、温かく幸福な家庭があって初めて意味を持つ理屈だ。
▼事件がなければ十分の一だったはずの告別式の弔問客が500人と聞いて、いっしょに働いている職人が「お金はどうしたのかな」と言った。「あんな立派な会場、自分では用意できないはずだよ」。彼は最近奇しくも川崎で働いていた親方の兄貴を見送ったばかりだ。「葬祭には最低でも140万はかかる。だから兄貴は安い焼き場があくまで待ったんだ。オヤジも挨拶で花輪はいいから香典でご協力くださいって言ってた」
▼今の日本には身内の葬儀を出すのもむずかしい人の方が多いはずだ。作業員がよく言うのは、「オレらはスクラップくすねるけど上の人間は業者にキックバックさせてる。悪いことしなきゃ自分の給料だけで家なんかたつわけない」ということだ。僕らの業界ではこうなるが、公務員なら裏金をプールするとか、業界によってやり方はいろいろあるだろう。それが極端までいった社会が中国やロシアだ。ある程度ずるく立ち回らないとお金なんか残らないという意味では日本も同じである。
▼この事件は国会でも取り上げられ、アベチャンはまたぞろ「まだ若い、尊い命が奪われたことは慙愧に耐えない。なぜこんなことになったのか、救うことはできなかったのか。しっかり検討していきたい」とお決まりの答弁でお茶を濁していたが、この事件は親や学校や地域が子供のサインに気づく気づかないといった当事者の責任に帰して済む話ではない。背景には前述の諸問題、日本がどのような社会を目指すのかという、まさに政治が取り組まなければならなかったはずの課題が横たわっている。
▼「凶悪事件の数はピークの6割。社会はけして悪くなっているわけではない」この種の凶悪事件が起こるたびに必ず出てくる議論である。全体最適の官僚の理屈に従えば、上手の手から水が漏る類のこれら一部の犠牲は仕方ないことなのかもしれない。だからこの手の事件はけしてなくなることはない。アベノミクスもトリクルダウンも、裏を返せば一種の棄民政策である。新しい政治の到来が待たれる。
▼先日、実家から近所の親戚のにいちゃんが亡くなったと連絡があった。ガンで一年ほど闘病中だったという。ちょうど忙しい最中で帰ることはかなわず、電報だけのお悔みになってしまった。毎年元旦におばちゃんのうちに寄ると、息子であるにいちゃんも笑顔で迎えてくれたものだ。今年は4日の挨拶になってしまい会うことができなかった。最後に顔を見たのは昨年の正月ということになる。
▼母のいとこにあたるが、年齢は僕たち子供の方が近かった。小5の時、今の実家に越した最初の頃、ひとまわりほど上のにいちゃんがよく面倒を見てくれた。映画館に「宇宙戦艦ヤマト」を観に連れていってくれた。雨の日に弟といっしょにドライブに連れていってくれたことを覚えている。いずれも引っ越した年のことだ。以後いっしょに遊んだ記憶はない。にいちゃん、僕たち兄弟が新しい環境に慣れるまで、目をかけてくれてありがとう。


毎晩帰りが遅くてひとりチンして食事することが多く、妻もウチゴハンをすっかり撮らなくなってしまった。