春の小説

この月曜から、また一段空気が替わった。空気というのは、物理的な空気もそうだが、雰囲気のようなものだ。季節感といえばいいだろうか。ひばりが鳴いている。桜は満開だ。時間がゆったり流れている。本当に気持ちがいい。最高の天気だ。これが春というものだろう。
▼日雇いのバイトをしている長男が、先週あたりから「最近仕事がない」といって首を捻っている。僕の方がこのギョーカイには多少は明るいので、「しばらくないと思った方がいいよ」と言っておいた。昨日まで目が回るほど忙しかったのが、気がつけば嘘のように仕事が引いている。毎年のことながら不思議なものだ。
▼一年で一番いい季節が、日雇いの人にとっては恐怖の季節になる。今日、車を走らせていると、偶然先週まで現場にきていた人夫が所在なげに歩いているのが目に入った。彼は去年もこの時期、酒に溺れて現場にこなくなってしまった。休みが多いと怠け癖がついてしまうのだろうか。明日のオマンマを心配しなければならない身では、おちおち花見もしていられないだろうに。現場がなくても月給が保障されている僕はつくづく幸せだと思う。
▼ここ数日は、妻がお笑いのDVDを借りてきていっしょに見ている。サンドイッチマンを二本続けてみた後、今日は綾小路きみまろ。最初はおもしろくても、じき飽きる。途中ウトウトしているとケータイが鳴った。在阪の友人からだ。すぐに同窓の親友に代わる。帰国してたんだ。二人で大阪城に臨むお濠端で満開の夜桜を楽しんでいるらしい。最近は帰国しても会うこともない。彼も若い頃海外経験を共にしたボランティア仲間の方がウマが合うのだろう。
▼今日で今年度も終わり。うちの会社は6月決算だが、期初は仕事がないので実質的に今期は終わりというのは前に書いた。今期を振り返ると、相変わらず利益率がよくない。昨年の反省が全く生かされていない。それもこれも全ては自分に原因がある。まずは虚心にそのことを認めないといけない。他人のせいにしていては一歩も前に進めない。
▼ひとつには勉強不足。自分が仕事を知らないというのはなかなか認めがたいものだが、仕事を知らないから見積に見落としができ、正当な予算が取れないわけだ。ふたつには仲のいい業者にお任せで仕事をやらせ、要求通りに支払っている。これでは仕事とは言えないだろう。俗にビジネスライクというが、ビジネスなんだから逆にビジネスライクじゃないと。
▼一番大事なことは、なぜ気前よく払ってしまうのか、その辺の心理を突きとめておかないと、来期も同じことの繰り返しになる。うちの家系は見栄っ張りが多いが、必要以上にセコイと思われたくない、あるいは不如意で恥をかきたくないという無意識が働いているのかもしれない。しかし社長の言うように「ダンドリの悪さを支払でゴマかすなんて犯罪」だ。
▼相手が満足する金額を支払うことで、僕はいったいどうしたいのだろう。下請に感謝されたいのだろうか。助けてあげているという恩を着せることで優位に立ちたいのだろうか。たくさんお金をくれるお客さんに対して、自分がどう思っているか考えてみる。感謝の気持ちも多少はあるが、自分の努力の結果だと思う気持ちの方が強い。下請の彼らも、余計にもらったというより、自分の努力で正当に得た対価だと思っているに違いない。
▼昨年末購入した時間差小説群。「なんクリ、33年後の〜」「いとま申して1、2」「きょうのできごと、10年後の〜」のセットのうち、最後の柴崎友香にてこずっている。ちょうどかかりが仕事のピークに重なったこともあるが、元々文体が自分のリズムに合わないというのもある。自分の感性に一番近いのは北村薫だが、ヤスオちゃんのバブリーな雰囲気もわかる。彼女だけが世代的に下というのも大きい。つまり僕にとって小説とは、年長者から教えを乞うものなのだ。
▼仕事が落ち着いてきたこともあって、再び手にとってみた。ふと、小説の時間が今時分であることに気づくと、読みやすくなって一気に前に進んだ。3月24日の引越パーティに集まった若者たちが、その前後の時間のそれぞれの意識をランダムに語っていく形式だ。この人の小説の季節感は、全部春のような気がする。ふわふわとして、つかみどころがない。
▼特別な展開のない、ただ人の(心の)動きを追っただけのような小説。僕らの日常も、正にそのようなものだ。新年度を迎える度に気持ちを新たにするが、毎年同じことの繰り返し。新しい人間関係は、春にやってきはしない。そんな気がするだけだ。そうやって身構えていると、かえってチャンスを逃すことになる。年を重ねることだけが、人に不可逆的な環境の変化をもたらす。10年後が楽しみだ。

昨日はおろしブタカラにチキンサラダ。

今日はブリテリに新玉のオニスラ。