今日の出来事

どんよりした曇り空である。朝まで霧雨が降っていたが、生コンを打つ前に奇跡的に上がった。作業員の一輪車を手伝って、それから担当事業所の輪番のパトロールに向かう。社用車を止めていた図書館の駐車場は、降りしきる桜吹雪だ。車を発進すると、ボンネットに積もった花びらが次々とフロントガラスに舞い上がる。
▼土曜の特集なのか、FMからシャンソンばかり流れてくる。かろうじてディセタン、ディセタンとリフレインするのが聞き取れた。「dire(言う)の二人称に指示代名詞ces(これ)+temp(時間)で命令形だから「この時を言え」つまり「今を語れ」かな」と勝手に和訳して悦に入っていると、曲が終わってパーソナリティがゲストにいきなり「17才の時何してました?」としゃべりだして目が覚めた。
▼学生の頃から僕はずっとこの調子だった。ディセタンと言えば、普通はdix-sept ans(17才)だ。特に仏文科専攻でなくても、第二外国語でフランス語を選択していれば普通はそう考える。もっと言えば、この歌を知っていれば間違えようがないわけだ。フランス語を勉強しようとする人間がシャンソンに親しんでいて何の不思議もない。正直、僕も勉強しなかったわけじゃない。ただピントがズレていた。こういうマチガイは、何か根本的な問題を孕んでいてヘコむ。
▼そのまま半ドンで上がって午後から妻とブックカフェへ。週休二日制っていつから始まったんだろう。少なくとも僕が学生の頃までは日本にそんな習慣はなかった。それでも全然不足はなかったな。土曜の半ドンのウキウキ感はハンパなかった。今だって週休二日制が機能しているのは公務員や学校などの公的機関だけで、大多数の国民には関係ない話だ。週休二日制は我々からただ半ドンの楽しみを奪っただけである。
▼「きょうのできごと、十年後」を読み終え、今日は新しい本を買う気満々。購入用に北村薫の新刊「太宰治の辞書」西川美和永い言い訳」新書で石原千秋三四郎はなぜ悲恋に終わるのか」文庫でフーコーの「知の考古学」をチョイスし、席に戻って高橋源一郎の「この戦争からあの戦争へ」の前回の続きを読む。ブックカフェで読み切るつもりが遅読でとてもムリ。タダ読みじゃゲンちゃんにも悪いので購入に変更し、代わりにフーコーを書棚に戻す。学生時代に買った「言葉と物」も結局難しくて読めなかった。フーコーはたぶん一生ムリだと思う。こういう判断だけはようやくつくようになった。
▼「いとま申して」で大ファンになった北村薫の太宰モノがおもしろくないはずがない。西川美和は是枝組出身の映画監督。「ゆれる」「ディアドクター」が有名だが、僕はデビュー作の「蛇いちご」しか見てない。是枝のデビュー作と比べれば、師匠より才能があるのは間違いない。映画では飽き足らず小説まで手を広げたようだが、果たして溢れる才気とは別の何かが見出せるか。「三四郎」(の悲恋)は僕のライフワークだ。
▼ゲンちゃんの「3.11以後の文芸時評」は、日頃僕が感じていることが書かれていてうれしかった。今日ブックカフェで読んだ範囲では、原発と電気の関係を節電とか風力発電とかでなく「共産主義は電気だ」と言ったレーニンソ連に飛び、「ゴジラvsヘドラ」の主題歌「水銀、コバルト、カドミウム…」を紹介しながら原発事故を公害の最上級と捉える片山杜秀のDJが最高だった。
▼つい先日も、専門医委員会が80人を超える福島県甲状腺ガンの子供を、スクリーニング効果だとかナントカ言って原発事故由来とは言えないと結論づけたばかりだが、これなんか水俣病チッソの廃液が原因となかなか認めず、かなり時間がたって結局はそこに落ち着いた経緯と全く同じだ。そして今、水俣病患者は認定が先かお迎えが先かという状況にある。憲法改正と戦争体験者の関係もそう。被害者家族の高齢化を待つ北とどう違うんだろう。
▼先日の池上彰の番組で、1960年代の日本は道にゴミは捨て放題。みんな歩きながら痰を吐いてキタナイのでいたるところにタンツボが置かれていたらしいが、痰は公害で空気が汚れていたせいだときいて納得。でもこれってどっかできいたことがある話だ。そうだ、中国人の悪癖だ。日本人もその頃は全く同じだったわけだ。少し先を走っているからって、昔のことはまるで忘れてしまえるものなのだろうか。
▼「きょうのできごと」の登場人物たちは、十年後のパーティで再会する。十年前23才だった登場人物たちは33才になっている。ただ、それぞれの上に流れた時間は同じものではない。十年という歳月が、あっという間であると同時に逆戻りできないものであることが、同じ場所で同じ時間を共有している人たちの別々の視点によって語られることで余計に際立つ。
▼僕が最愛の彼女とつきあってフラれたのも23才の時だ。十年後、もし彼女に再会していたらどうだっただろう。33才の時は下の子が生まれ、墓石屋でそろそろ煮詰まっていた頃だ。その十年の間に、僕は大学を中退し、エロ本を作り、都落ちして塾の講師になり、そこの事務員と結婚してすぐに長男が生まれ、半ばクビになる形で塾をやめ、派遣、業界紙記者と職を替え、結局墓石屋に落ち着いた。
▼彼女と十年ぶりに再会して何を話すことがあるだろう。十年という時間は、小説の中で特に問題もなくつきあっていた恋人同士にさえすれ違いが生じる時間だ。その間彼女がどうしていようと埋めがたい隔たりであることに違いはない。それからさらに16年の月日が流れたのだ。

昨日は豚丼全部のせにネバネバサラダ。

今日はブックカフェの帰りに買って帰ったお寿司にチキンとルッコラのサラダ。