映画的時間

日曜も雨だ。少し肌寒い。実に2ヶ月ぶりのオフである。既に先週から定時帰宅のクールダウンに入り、昨日も午後中ブックカフェでまったり過ごしたので、それほど疲れはたまっていない。この二ヶ月はボクログもシューイチがやっとのペースだったので、これから頑張って更新していきたい。
▼朝一番に下の子が部活に、その次に妻が朝ヨガに、最後におっとり刀の上の子が遊びに出かけ、すぐにひとりうちに取り残される。もう家族には僕のいない休日が当たり前なのだ。午前中昨日買った本にひと通り目を通し、午後からは映画三昧。街に向かう列車に乗り込むと偶然会社の人に会う。ゴルフ観戦の帰りらしい。昼間からお酒の臭いがした。
▼一万円で八本無料のミニシアターの年会員になり、二本連続の鑑賞だ。イギリス映画「おみおくりの作法」と、ホン・サンス監督、加瀬亮主演「自由が丘で」。映画館は混雑していた。こんなことは初めてだ。雨の日の日曜日だからかな。二本立て(じゃないけど)なんていつ以来だろう。同じミニシアターでも全く興味がない上映が続く時もある。今月は映画月間だ。仕事が薄い時期でよかった。
▼一本目の「おみおくりの作法」は、役所で身元不詳の遺体の処理係をしている職員の話。

彼は亡くなった人の身元を丁寧に調べ、ひとりひとり葬式を出してゆく。非効率で時間のかかる彼のやり方は上司のウケが悪く、ついに解雇されることになる。どうせ身よりがないなら、もっと手っ取り早く火葬にして灰を撒いてしまえというわけだ。現に前半の様々な人の葬儀に参列しているのは、結局職員の彼だけである。
▼葬儀は誰のものかというテーマは、僕も考えたことがある。亡くなった本人のものか、残された遺族のものか。僕は遺族のものだと思っていた。「死んだ人に感情はないんだから」という上司の合理主義とはまた違うが、結論は同じだ。身よりがないのなら葬儀はいらない。全てのキャリアを通じて、主人公が遺体によって仕事ぶりに差をつけたことはないに違いない。しかし彼が解雇されることが決まり、従って最後の仕事になって初めて物語は動きだす。だから僕はそれ以前の葬儀の間は眠らずにいることができなかった。
▼二本目の「自由が丘で」は前から観たいと思っていて果たせなかったホン・サンス監督作品。はたして期待に違わぬたくらみに満ちた作品だった。

かつて韓国で語学学校の講師をしていた日本人(加瀬亮)が、当時の同僚の女性に会いに韓国を訪れるが叶わず、自分が彼女を求めてやってきた証拠に、彼女を待つ間に(主として「自由が丘」というカフェで過ごしている)そこで起きた出来事をしたためた手紙を彼女宛に書き、それを彼女が読むという設定だ。
▼映画としては当然、手紙に記された内容(ゲストハウスや「自由が丘」で過ごす加瀬亮の日常)が映像として再現されるのだが、おもしろいのは何枚もの便箋の裏表にびっしり書かれた手紙を最初に彼女が落としてしまい、バラバラに拾い集められた(一枚などは拾い忘れたままだったりする)便箋を彼女が読む順番に場面が生起することだ。あとから正しい順に並べ替えられるにしろ、少なくとも一番最初に読む時はランダムなはずだ。
▼一日の間にもいろんな出来事があるから、シーンもわかれる。でもそれぞれの登場人物が同じ日に着ている服は同じはずだから、場面ごとの整合性をとるのは結構難しいことだ。だから僕は、この映画は最初時間軸に沿って撮影され、後からその連続したシーンを一枚一枚の便箋のようにバラけてシャッフルしたのかと思った。
▼しかしそもそも映画は、シーンごとにバラバラに撮影された映像を、後から時間軸に沿って編集する(並べ直す)という作り方をしているはずだ。そして実のところ我々も、現実をそんな風に後から頭の中で整理しているのではないだろうか。それは結構ややこしくて難しいことだが、我々は難なくそれをこなしている。
▼わりと最初の方で「自由が丘」の店員が愛犬を見つけてくれたお礼に、加瀬亮を食事に誘う場面がある。その席で彼女は加瀬が読んでいる本の内容を訊ねる。それは「時間」について書かれた本だが、彼の説明がとてもわかりやすい。曰く「時間は実体のあるものじゃない。例えば君や僕やこのテーブルのようにね。過去から現在、そして未来へと流れているように感じられるのも、人間の頭が勝手に作り出したものなんだ。でも人間はその枠から自由になることができない」
▼自由になる方法のひとつのヒントが、ここにあるような気がする。そんな大げさな話じゃなくても十分に楽しめる映画だが。

出かける前に朝ヨガから帰ってきた妻が手早く作ってくれたサンドイッチ。今はやりの冷凍タマゴを使用。

そして夜はブリの塩焼きに絶品ポテサラ。