なぜ僕は悲恋に終わったのか

雨また雨の日々である。おまけに寒い。全く気が滅入る。積極的に外に出て行こうという気にならない。仕事がヒマなこの時期にリフレッシュを兼ねて上京する計画もあったが、去年の大雨の記憶が甦ってやめた。いっそうストレスがたまる。
▼洗濯物が乾かないので、妻はほぼ毎日コインランドリー通いである。男三人の山のような洗濯物を抱える妻を見かねて持ってあげる。乾燥を待つ間、毎度妻はドラッグストアに行き、僕は残って本を読む。学生の頃を思い出して懐かしい。僕の記憶の中ではコインランドリーは銭湯や学生と結びついているが、今は必ずしもそうではない。ていうか地方では元々そうではなかっただろう。
▼「永い言い訳」に続いて石原千秋の「なぜ『三四郎』は悲恋に終わるのか」にとりかかる。大好きな「三四郎」研究の集大成と思って舌なめずりして買ったのに「三四郎」はサワリだけでガッカリ。以下田山花袋「蒲団」森鷗外「雁」武者小路実篤「友情」志賀直哉「暗夜行路」谷崎潤一郎痴人の愛川端康成「雪国」石原慎太郎太陽の季節柴田翔「されど我らが日々」三島由紀夫「春の雪」と続く。
▼しかしこれらの名作を一篇も読んでないというのも情けない。いや「友情」と「雪国」と「されど我らが日々」くらいは確かに読んだはずだから、他も覚えていないだけで読んでいるかもしれない。けど記憶に残っていないものを読んだとは言えないだろう。「それぞれ百回以上は漱石の小説を読んで身体に染み込んでいる」という石原氏のようでないと。全部読んだくらいで「漱石ファン」だなんていい気なもんだ。
▼キーワードは「誤配」。恋愛対象と自分の出会いが誤った配合だという感覚こそ恋愛に必須のアイテムで、そうであれば近代文学に描かれた恋愛は必然的に悲恋にならざるをえないというもの。「障害が恋を燃え上がらせる」あるいは「道ならぬ恋」に似た理論だが、近代的自我の中に理由を求めている分だけ、自意識過剰な僕なんかには親しみやすい論考だった。
▼なるほど僕の若いころの悲恋も、思えば常に「僕は君に相応しい人間じゃない」という意識がついてまわった。それは自分を卑下するフリをしながら、多分に特別視する意識から来ていることは間違いない。要するに自惚れが強すぎるのだ。フラれて当然だ。そんなオナニー野郎を好きになってくれる女性がいるとしたら、それはそれでそいつもどうかしてるぜ。
▼それにしても名作と言われるこれらの作品に意外にも性に関する直截な表現が多いのには驚かされた。「痴人の愛」はともかく「雪国」も「ただのポルノグラフィ」だ。考えてみれば恋愛にセックスはつきものである。性のない人間などいない。それは身体があることと同義だ。人はすべからく「性的人間」であり「この性」としか言えない存在なのだ。これらの小説の内容が僕の記憶からすっぽり抜け落ちているとすれば、当時の僕が無意識に性を抑圧していたからだろう。そいつをプラトニックラブと美化すれば、性に意識的であればあるほど彼女は汚れていることになってしまう。それじゃあ彼女の立つ瀬がない。フラれて当然だ。
▼よくテキストと読者の関係は楽譜と演奏者に例えられるが、この手の文芸批評を読むたびに思うのは、作者は研究者が指摘する全ての細部に至るまで、そこまで考えて計算して書いているのかということ。それとも単に批評家の深読み、新しい解釈の提示に過ぎないのだろうか。全て承知の上だとすればスゴイことだし、そうでないとしてもそこに無意識が反映しているわけだから、自己をさらけ出す覚悟なしには書けない。批判を恐れていては人生に何ひとつなしえないことに変わりはない。
▼読む方もまた、その人自身を問われている。僕はよき読者たりえているだろうか。高校の現国の授業で、「漱石の小説は女性の側の心理を描いていない。そこが漱石の限界」なんて言う奴がいて度胆を抜かれたことがある。でも今は敢えて全てを書ききらなくてもいいと思う。僕には未完の「明暗」さえ完成しなくてよかったという思いがある。水村美苗による「続・明暗」や小林信彦による「坊ちゃん」の続編とも言うべき「うらなり」も面白いが、それはまた別の興味だ。
▼語りえないものを語るにはそれなりの方法がある。それは全知的視点から全てを書ききることではないと思う。

ガードマンに電話して筍を持って来てもらう。木曜夜、金曜の弁当のおかず、金曜夜と筍尽し。堪能した。

実家の近所の親戚のおばちゃんから下の子の入学祝いが届いた。御礼の電話をかけると、先日亡くなったニイチャンの奥さんが出た。49日までいるらしい。おばちゃんに代わると開口一番「さみしい」と言う。無理もない。