人生のイメージ

雨の中休みに合わせるように土、日と連休にした。全体に仕事は薄いが、きちんと休んだのは先週の日曜のみだ。この後月、火と再び雨の予報。今日も晴れとはいえ正確には薄曇りである。
▼土曜は朝方まで残った雨が上がった後、懸案の部屋の模様替えに着手する。寝室の一面を占領する三竿の箪笥を解体し、ニトリのペラペラのクローゼットと交換する。これでこちらに越す時に処分した三面鏡、越してすぐに廃棄した水屋と共に、我が家に価値のありそうな調度品はなくなった。全て妻の嫁入り道具だ。結納返しのスーツといい、僕はつくづくきちんとした家の娘さんと結婚したのだと思う。大塚家具父娘の仁義なき戦いも、結局はそういうことではないか。
▼これらの道具を処分したがったのは妻の方だ。そのことに何か深い意味を探るのはよそう。出戻りの上の子、高校に上がった下の子と、大きな子供を二人も抱え、3Kの社宅が手狭になってきたのは事実だ。図々しい上の子が自然に子供部屋で寝るようになり、「高校に入ったら自分の部屋で寝る(彼はまだ僕らに挟まれて川の字になって寝ている)」と言っていた下の子が割を食った形で、時々思い出したように癇癪を起す。
▼妻の言い分は①「大きな箪笥を背に寝ていると地震が恐くておちおち寝られない」と②「箪笥を片付けてそこに子供部屋の荷物を移し、子供二人寝るスペースを作る」というもの。しかし箪笥と同時に中身の方もどうにかしないと同じことだ。そしてその9割以上が妻の服である。はたして模様替えは箪笥の素材が木製から石油化学製品に変っただけに終わった。
▼翌日曜は妻は一日ヨガ。どんなに疲れていても向こう3年は5時起きの弁当作りが続く。「朝ヨガの時間まで二度寝する」ってどんだけ早いんだ。下の子は部活、上の子はデートで、僕はまたひとりぼっちの休日。日経日曜版の有吉玉青のエッセイ「小学校の同級生」が身に染みた。
▼小学校まで家族ぐるみでつきあっていた同級生から母親の死を知らせる連絡がある。彼女が自分の居場所を調べてくれたのだが、年賀状のやりとりぐらい続けておけばよかったと思う。縁あって知り合ったのに、日常の些事にかまけているうちに疎遠になってしまうのはなぜだろうというもの。全くの同感である。
統一地方選の投票日だが無視して映画を観に行く。地方議会の争点は国と同じく行財政改革につきる。煎じ詰めれば大阪都構想問題に行きつくが、御承知の通り橋下市政の元で議会はオール野党だ。僕の住んでいる地方も政令市なので莫大な予算がある。世の中は裁量権を巡る争いである。県議より市議に手を挙げる人の方が圧倒的に多い。県議はほとんど無投票再選。こんな選挙に意味はない。二重行政以外の何物でもない。
▼上映時間を勘違いして一時間早く着いたので、先に食事を済ませようとお目当てのとんかつ屋に向かうも開店前。仕方なく日曜午前の閑散とした歓楽街をぐるぐる歩いて時間を潰す。

一本目の「愛して飲んで歌って」は巨匠アラン・レネ監督の遺作。正直半分以上寝てました。三組の夫婦の奥方が余命幾ばくもない共通の知人を奪い合う。それぞれ彼の元恋人、元妻、お芝居の相手役だが、誰にも決め手はない。舞台はそれぞれの夫婦の家と男の家の四か所。背景は書割で、時折マンガの地模様になる。喜劇と悲劇の違いはあるが、名匠オリベイラ監督の「家族の灯り」に似ている。人間齢90を超えると世界観が似てくるのかな。人が生きる範囲なんてこんなもんだと。まさか予算がなかっただけとは思いたくないが。
▼一本目と二本目の間に昼食をとる。お目当てのとんかつ屋はいっぱいだったが、口がトンカツになっているので別のとんかつ屋に回る。それから本屋で時間を潰し映画館に戻った。

二本目は先週に引き続きホン・サンス監督の「ヘウォンの恋愛日記」。二作目にしてこの監督の色がだいたい見えてきた。内容的には大学教授と教え子の痴話喧嘩だ。なんのことはない。主張的には「愛して〜」と同じかもしれない。けどこっちの方が断然面白い。作品の成功は、結局のところ観る者にどれだけリアリティをもって訴えかけてくるかによる。
▼冒頭からヘウォンの夢である。有名人に道をきかれ、意気投合する。ラストも図書館で見る夢。その間にヘウォンの語りの中で母親がカナダに立ち、その淋しさから別れた教授との恋が復活してしまう。舞台は母親と入ったカフェ、立入禁止の史跡、教授と初めて泊った旅館へ通じる道、デートで訪れたお城と同じ場所ばかり少しずつ相手を変えてぐるぐる回る。
▼おそらく映画の位相は三つ。日記を書いている現在のヘウォン、日記の中のヘウォン、そのヘウォンが見る夢の中のヘウォン。しかし映像として再現されたものは、どれも観る者にとっては等価である。そこに混乱が生じる。

今日のウチゴハンはポークピカタに春キャベツサラダ。
人生はリニアではない。といってループでもないと思う。ヘウォンの母親が言うように「生きるとは死に向かって少しずつ近づいていくこと」に違いはないからだ。だから僕は螺旋状に漸進するものだと思う。ほとんどの人は狭い範囲の中で似たような毎日の繰り返しを生きる。しかしほんの少しのタイミングのズレで、他者と触れ合ったりすれ違ったりそのまま疎遠になったりしながら少しずつ年をとる。それが人生だ。