初夏の色

見事なまでの晴天である。早い人は今日から連休である。そして一連の休みは端午の節句でピークを迎える。この好天も、季節の区切りとしては五月晴れと言ってしまっていいと思う。
▼今日から早くも連休工事の前哨戦で、せっかくの週末に休めない。仕方ないので夕食後、妻とブックカフェに行く。車中で妻が西野カナの曲をかけて口ずさんでいる。かなりヒットしているのだろうが、不思議と僕は彼女の歌だけは全く耳に残らないのだ。歌詞もメロディも全然覚えられない。妻にそう言うと、「それはあなたが女性でも若くもないからよ。彼女は若い女性向けに歌ってるんだから」と言われてしまった。気がつけば、僕もアラフィフのおっさんだ。
▼さて、下の子の部活だが、当初予想していたより随分早い。だいたい夜7時前には帰ってくる。先週が記録会だったので、その前後は「落としのメニュー」だと言い訳していたが、いっこうに変わらないからこれが正規のメニューなんだろう。上の子に「たいしたことないじゃん」とからかわれていたが、練習は長くやればいいというものでもない。
▼上の子の場合、毎晩22時過ぎまで練習していた。経験から言えば、デキの悪い学校ほど練習時間が長くなる。説明してもわからないから、反復して身体で覚えるしかないというのもあるが、一番の理由は、彼らが自主的に練習できない、つまり自分で自分を律することができない人間だからだ。そういう子供は指導者がやらせるしかない。牛馬といっしょである。
▼僕もまた、そのような子供だった。全国レベルの中学の長時間の厳しい練習から、進学校の短時間の研究のような練習へ。急激な変化に戸惑いを覚えた。先生はどうして鍛えてくれないんだろう。他のシロートに毛のはえたような連中ならともかく、僕ならどんな練習にも耐えられるのに。全くどんでもないアマチャンだ。
▼「ヤバイ。オレ受験(5教科250満点で)100点なかったって。副校長先生に教えてもらった」下の子は、学力的には本来私立単願(公立に行くところがない)レベルである。その上、彼の目下の悩みは、商業高校なので好きな社会と理科がないこと。苦手な国英数の基本教科以外は、簿記などの実学系だ。授業が全然おもしろくないと訴える。
▼それでも彼は屈託がない。「クラスをたのむって先生に言われた」「種目なんにしようかなあ。中距離向きってコーチが言ってた」「3年の先輩に映画に誘われた」新しい環境と人間関係と妻のお弁当が楽しみで仕方ないようだ。朝、ドッグランに放たれた犬のようにワンワンワンと出ていき、ぴったり19時にハッハッハッと戻ってくる。
▼自然界の不思議に興味を持ち、社会問題に心を痛める。素直な下の子を見ていると、理科や社会が暗記科目だなんて、いったい誰が言い出したんだろうと思う。僕自身が中学生の頃や、塾の講師をしていた頃は確かにそう言われていた。数学ができるのが真に頭がいいなんて誰かが言うもんだから、数学が得意なフリをしてた。英語は努力科目だから天才肌に似合わないとやらなかった。もちろん理科や社会も。
▼誰かっていったい誰だろう。親?学校の先生?塾の先生?若い頃の僕は、他人から見える自分を、そんな大人の期待に沿うような理想形に近づけることばかり考えていた。どんだけ小さい人間なんだ。全く情けなくて涙が出てくる。いや、今だって同じだ。数学が文学になり、理想の家庭の理想の父親になっただけのことだ。
高橋源一郎文芸時評「この戦争からあの戦争へ」がなかなか進まない。初めチョロチョロ中パッパ、後半は燃え盛るばかりだ。正直読むのがツラい。橋本治の「初夏の色」を取り上げた回が応えた。「社会の声を自分の意志のように思い込んで」生きる「ふつうの人」にとって、「やるべきこと」は常に向こうからやってくる。卒業、就職、結婚、出産、仕事…そしてある日、何もやることがない自分に気づく。これってまさにオレじゃん。
▼大学四年の初夏、僕は年上の彼女に高橋源一郎のことを教えてもらった。それからは、例えば「文学がこんなにわかっていいかしら」を読んで、その中で紹介された田中小実昌の「アメン父」を読むような読書をボクは続けてきた。氏の物の見方や考え方、氏のフィルターを通して世の中を見ることが気持ちがよかった。しかしそれすらも、中学の時の「数学」の単なる変化バージョンにすぎないのだろうか。
▼今日うちに帰ると、ホットカーペットがしまわれてフローリングだけになっていた。昨日までフリースのパジャマだった僕も妻も、Tシャツに短パン(僕はパンツ)だ。今日は暑かった。夜になると涼しいが、もう夏だ。彼女にフラれた夏から、もう25年がたつ。あっという間だ。

昨日は下の子の大好物、酢鳥に絶品ポテサラ。果たして帰るなり「このニオイは!」と尻尾を振って喜んでいた。