バブルの功罪

季節はずれの台風が猛烈な雨をまき散らして列島を駆け抜けていった。僕はいつもの台風待機を命じられていたが、翌日締切の見積やら翌日乗り込みの現場の書類やらが重なって、なかなか事務所を後にできない。ようやく事業所に着いた頃には雨があがってたよ。
▼大相撲夏場所が始まった。初日から横綱白鵬に土がつく波乱の幕開けである。相手は怪物逸ノ城。ちょっと身体を振っただけで横綱がバランスを崩し手をついた。力相撲ではない点を差し引いても、並大抵の圧力ではないことは確かだ。波乱とはいえ起こせる力士は限られる。もうひとりの怪物照ノ富士、それに稀勢の里くらいか。
▼それにしても昨今の大相撲人気は凄まじい。つい数年前に八百長疑惑で本場所開催自粛に追い込まれたのが嘘のような加熱ぶりだ。千秋楽にさえ埋まらなかった客席が、初日から15日間満員御礼である。話題はスージョと呼ばれる相撲女子。相撲取りに女子が群がるなんて若貴フィーバー以来のことだ。日本経済は既にバブル状態にあるといっていいだろう。評価は別にして、アベノミクスは少なくとも意図した人たちの思惑通りに進んでいる。
▼途上国や焼野原スタートならともかく、成熟社会において高成長が持続できるはずがないことは、少し考えれば誰にでもわかることだ。バブルが「未来の成長の先食い」(堀井憲一郎「若者殺しの時代」)だとすれば、バブル=好景気=高成長を望むのは、子供たちの将来より今の自分さえよければいいというエゴ以外のなにものでもない。
▼経済成長と自分の生活がリンクしない人は、以下のように考えればわかりやすい。マイナス成長は給料が下がること。これはいけない。低成長は微増。何かと物入りだと少しくらい上がっても全然上がった気がしない。だから人は所得倍増とはいかないまでも、せめて給料2割増しプラス経費で飲み放題だったあの頃を懐かしむ。少なくとも飲み代をポケットマネーで払っていたのではマイホームも建たないし浮気もできない。でもそれは子供の名義で借金をするようなものだ。
▼この日曜はよく晴れていたが、一日うちで本を読んでいた。「子規、最後の八年」。著者の関川夏央氏は、上京したての頃読んだ「海峡を越えたホームラン」がドストライクで、学生時代にハマっていた。「ソウルの練習問題」などの一連の韓国シリーズ、「水の中の八月」などの自伝的小説の他に、氏が原作を書いた劇画もよく読んだ。狩撫麻礼とコンビのアウトローもの。谷口ジローとコンビの明治の文豪シリーズはとりわけ愛読したが、バブル崩壊以後疎遠になっていた。
▼今から30年前、現在65の氏が35才頃の仕事である。映画監督の多くが日活ロマンポルノで助監だったように、一時期エロ本を作っていた経歴にも親近感を持った。しかし氏が自らのエッセイで語っていたように「電車でスポーツ新聞を読むのをガマンして、その時間をハングルの勉強にあてた」努力の末「ホームラン」をものしたのに対し、ヒマつぶしに東スポを隅から隅まで熟読する習慣を改められなかった僕は、その年までギョーカイで粘ることができず都落ちした。
▼「子規、最後の八年」は、結核持ちの子規が、自ら志願して従軍記者として日清戦争随行したことで決定的に体調を崩し、以後35才でその短い生涯を終えるまで、東京根岸の子規庵で過ごした寝たきりの八年の記録である。僕が考えるのは、28から35という年齢のことだ。おそらくは人の一生のうち最も充実した季節と言えるのではないだろうか。期せずして子規は八年の凝縮した時間を生きた。普通に永らえたとしても、残りは余生のようなものだ。
▼人生の充実期に諦めずに呻吟努力した子規の姿に、関川氏は自らの雌伏の時を重ねる思いもあったのではないか。努力しなかった僕にとっても、28で結婚して幼な子と地元で過ごした八年が人生最大の充実期であったことは間違いない。そして東京で過ごした1985から1992のバブル期である。バブルの評価は難しい。散々な想い出ばかりだけど、不思議とあの頃が一番懐かしく思い出されるからだ。きっと社会に出る前の学生だったのがよかったのかもしれない。


月曜豚丼、火曜ピーマン肉詰。GW後日曜までは妻がヨガマスターの合宿参加でウチゴハンなし。