旅路の果てに

目が覚めると雨が音をたてて降っている。朝のうちだけの予報なのに昼を過ぎても雨勢が弱まらない。雨の日はよく眠れる。それが日曜ならなおさらだ。学生時代に私淑していた先輩は、よくバイトに寝坊しては「低気圧だとよく眠れる」と言い訳していた。言われてみれば確かに晴天だと寝起きがいいような気もする。でも低気圧はないだろ。
▼試合の下の子を朝4時に起きて送り出した妻とゆっくり二度寝。9時に起きてきた妻は二度寝が5時間睡眠だ。7時に起きた僕はいつものように新聞&テレビの日曜版三昧。途中上の子が起きてきて雨をものともせず遊びに出ていった。昼前に妻がヨガに出かけ、またひとりぼっちだが、全然さみしくない。50を前にした男が言うことでもないが、これも妻のおかげだ。
▼今日の読書欄では目黒考二氏の「昭和残影」が目にとまった。またの名を北上次郎。日経夕刊の書評担当だ。浅学の僕は、氏と勘違いして手にとったのが、今一番お気に入りの作家北村薫との出会いだった。父親の残した日記から、その青春を追った「いとま申して」シリーズだ。この「昭和残影」も、父親の評伝である。
▼父の再婚の子である目黒氏は、非合法活動に関わり、投獄中に同志である最初の妻と死に別れた父の過去をもちろん知らない。「父の青春の終わりが、自分の家族の始まりだった。調べれば調べるほど自分の知っている父とは違う存在が立ち現われてきて驚きの連続だった」という著者の言葉に惹かれる。
▼同じ読書欄に、ようやく読み終えた「忘れられた巨人」も紹介されていた。よくまとまったあらすじは大学准教授の解説に委ねるとして、僕なりにネタバレ&謎解きをしてみたい。夫婦の物語である。息子に会うために老夫婦が旅に出る。舞台は6〜7世紀のブリテン島。アーサー王伝説を下敷きにした、鬼や竜が跋扈する冒険譚の趣だ。
▼途中、彷徨える老婆の挿話がある。その老婆は夫と生き別れになっていつまでもそこにとどまっているのだ。それには以下のような理由がある。夫婦の愛を確かめるため、渡し場の船頭は夫婦それぞれ別々に、今まで生きてきた中で一番楽しかった想い出をひとつだけあげさせる。二人の想い出が一致した場合のみ、いっしょに渡ることが許されるのだ。
▼紆余曲折を経て、ついに夫婦は息子のいる島の対岸に辿り着く。件の試験にも合格し、いざ渡る段になって渡し守は「舟が小さすぎてひとりずつしか運べない」と言いだす。「いっぺんにはムリだから二回に分けるだけ」と彼は言うが、夫は納得がいかない。先に小舟に横たえられた妻は長旅の疲れで瀕死の状態だ。事実、道中妻がなんらかの病気を抱えていることが示唆されている。
▼島には息子が眠っている。老夫婦の目的は息子の墓参りだ。だとすれば島は彼岸で夫婦の旅は死出の旅路の比喩だろうか。「人間結局最期はひとり」ということが言いたいだけなら、ラストの逸話だけで十分だ。老夫婦の苦難の道程も、選ばれた少年と西国の戦士の武勇伝も、アーサー王の騎士と雌竜退治のエピソードも全部いらない。では老夫婦の冒険は何を意味しているのだろう。
▼この国の住民の記憶が奪われていることは前にも触れた。そこでは起こったことが次の瞬間には忘れられてしまうが、その方が平和には違いない。そんな主人公にも、かつて戦士だった頃の記憶が断片的に甦る。そして最愛の妻の若き日の過ちも…だがここからが重要なのだが、失われた記憶を取り戻すとは、そんな過去の栄光や若気の至りを追憶することではないと作者カズオ・イシグロは言いたいような気がする。
▼「忘れられた巨人」とは、いったい誰をさすのだろう。かつて戦士だった老いた主人公か。それとも偉大なアーサー王か。原題は「バーリッド・ジャイアンツ」直訳すれば「埋葬されたジャイアン」文字通りにとれば死んだ息子のことだ。だがもう少し広げて、我々が日常生活にかまけて忘れているサムシンググレイトな存在と捉えてもいいかもしれない。大切なものの比喩として子供以上のものはない。それは人間の希望と喜びと可能性の全てを体現する存在だからだ。
▼忘却の中に安逸な暮らしを貪ることと、老境に入ってなお苦難の旅に出ることの、人としてどっちが幸せかは正直わからない。ただこの夫婦は平穏な生活を捨てて息子を探す旅に出ることを選んだ。そうでないとお話にならない。大切なものを取り戻すために苦闘する人間の営為だけが、語られるに値することだからだ。そこでは理性と合理主義がファンタジーとして退けためくるめく世界が広がっていることだろう。

土曜のウチゴハンナポリタン。ヨガから戻った妻と午後から降りしきる雨の中を買物に行く。帰って社員旅行の荷造りをして一息ついていると、夕方になってようやく空が明るくなってきた。明日から三日間沖縄の空の下だ。社員旅行じゃ冒険にもならんが。