トリップ、オキナワ

社員旅行で沖縄に行って来た。梅雨の明けた沖縄は、三日間適度に雲が残る絶好の天候に恵まれた。空港を出ると多少むっとしたが、耐えがたいほどでもない。
▼沖縄は初めての訪問である。ただ普段沖縄出身の作業員とよく仕事をするので、全くの初めてという感じでもない。沖縄の人は日本人一般に比べ情に厚いように思う。人なつっこいが、人におもねることはけしてない。食べ物はソーキそばやラフテーミミガーなど豚肉文化。もずくや海ぶどうなど海の幸もあるが、魚は熱帯魚系だ。やはり「食べ物は北に行くほどうまくなる」は本当か。
▼ご承知の通り、6月23日は沖縄にとって特別な日だ。全島民の1/4が亡くなった沖縄地上戦で、日本軍の組織的な抵抗が終結したこの日を「慰霊の日」と定め、休日としている。恥ずかしながら僕は、休憩中の雑談で沖縄の作業員からきくまでこの事実を知らなかった。「渋滞して観光なんかできるのかな」と彼は首を捻っていた。
▼彼の心配をよそに、月曜に到着した僕らが沖縄滞在中に「慰霊の日」を実感することは一度もなかった。南北に長い沖縄本島は、戦争の爪痕の深い南部と、基地の、つまりは戦後を色濃く反映する中北部に分けられる。ツアーは到着したその足で南部の観光(ハブ)を終え、「慰霊の日」には中部の万座ビーチでマリンスポーツ、最終日に北部の美ら海水族館を見るようにうまく組まれていた。

▼今回の沖縄旅行で、戦争や戦後の基地問題を感じられるものはひとつもなかった。まさに「慰霊の日」を狙っていったような日程であるにもかかわらずである。観光バスが走るハイウェイからは、緑の山以外に鉄塔とフェンスしか見当たらない。我々は基地ときけばすぐ兵舎や滑走路や弾薬庫など、戦争と直接結びつく施設を思い浮かべるが、大半はただの山だ。単に土地が占領されている状態にすぎないが、沖縄の地主にとっては基地のイメージよりそのこと自体が切実だろう。
▼ツアーに唯一組まれていた嘉数高台公園から臨む普天間飛行場も、遠すぎて期待はずれ。僕の住んでいる地域にも航空自衛隊の基地があって、日常的に自衛隊機が頭のすぐ真上を飛ぶのに慣れているせいか、正直普天間がそこまで危険な基地とは思えなかった。アベチャンは「辺野古に基地を作らないと普天間が固定化されるんですよ」と脅すが、美ら海を埋め立ててまで新しい基地を作るくらいなら、むしろその方がいいんじゃないか。逆に普天間の危険性を除去するというのは、もっと機能的な新しい基地を得るための口実にすら思える。

▼さて、「慰霊の日」に安倍首相は沖縄に来たのだろうか。添乗員は僕らが宿泊したホテルにもSPが泊まっていたというが、本人は当日入りだろう。しかし万座ビーチの海中を散歩している間は知る由もないが、泡盛の蔵元でクースーを試飲している最中も、那覇市内に戻って鉄板ステーキを喰らっている間も、安倍首相のあの字も感じなかった。彼ってそんなに存在感なかったっけ?
▼戻ってきてみると、国会では相変わらずキヨミーが、安保法制に沖縄をまぶしてアベチャンにからんでいる。「慰霊の日」に、どうやら首相は沖縄にやってきたようだ。キヨミーによれば罵声も浴びたらしい。でも繰り返すが、少なくとも沖縄にいる限りそんな雰囲気は全然なかった。わずかにベストセラー作家の「つぶさなきゃ」発言があった沖縄の地方紙に、もう80を過ぎた方々の戦争の記憶が掲載されていただけである。
▼安倍首相は、実は首相在任中の「慰霊の日」は全て沖縄を訪れている。それがなぜ怒号と罵声で迎えられるようなことになるのか。キヨミーの質問に本人に代わって考えてみる。そもそも歴代首相が追悼式典に出席したのは1990の海部首相が初めてだ。2000年の森首相でやっと三人目。何かのアリバイ作りに参加し始めた感は拭えない。「沖縄に寄り添って」というが、形だけで心が伴わないからこういうことになる。戦後70年談話についても全く同じ。村山元首相が言うように「謝りたくないのが本音」なのだ。
▼初日は矢部宏治の「沖縄米軍基地ガイド」と首っ引きでバスの車窓から外を眺めていた僕もすぐ飽きた。肩の力が抜けると沖縄が向こうから近づいてくる。コンパニオン付の宴会から全員参加の二次会が終わり、なおほとんどが三次会に向かう中、僕は離脱してひとり友人からきいた居酒屋でソーキそばをすする。年配のマスターに「○×知ってますか?」ときくと、「知ってるもなにも去年行ってきたよ」と答える。ケータイで彼に電話をかけて代わると、しばらくうれしそうに話していた。
▼話し終えて僕にケータイを返しながら「もう15年になるかな」とオヤジが言う。中学の非常勤講師として沖縄にいた四年間で友人が「一番世話になった」店だ。カウンターから振り向くと畳の小上がりがある。漫画が積まれ、客を上げるにしては雑然としている。「金がない時はメシも食わせてもらった」と言っていたが、ここで寝たのも一度や二度ではあるまい。ここには確かに彼の青春がある。

▼「慰霊の日」に地方紙に寄せられた言葉はどれも似ていた。目の前で肉親が粉々になって、「あまりのショックに涙も出なかった」茫然自失して言葉も出ない。オキナワと戦争の真実からあまりに遠く離れた場外乱闘ぶりを見るにつけ、我々が胸に刻むべきは美辞麗句や声高なプロテストではなく、ただ体験者の言葉だけなのだと思う。

土曜はカルボナーラ