二度と戻らない夏

長い雨がようやく途切れた。これでようやくランドリー通いから解放される。毎晩ですよ。予報では今週中頃までもちそうだ。次に降る雨はもう梅雨のものではなく台風によるものだろう。すなわち盛夏の到来である。
▼長らく外に出ていたが、ポツポツ担当事業所の工事も出始めた。今日は久しぶりの日曜出勤だ。予定では今月最終週から休みがなくなるので、今のうちに休んでおこうと昨日は代休をとるつもりだったが、直前に協力会でつくる輪番制のパトロール当番を代わってほしいと依頼があり、つい断り損ねてしまった。僕も人がいい。
▼パトロールの時間まで会社で工事の完成書類をつくる。パソコンのスキルがなくて書類作成に時間がかかる話は以前にも書いたが、データ上でできあがったものをプリントアウトして紙資料としてファイリングする事務処理にもスキルはある。インデックスの文字が手書きではカッコ悪いので、僕はテプラの一番細い透明のテープをインデックスに貼り付け、さらにそれを書類につけていく。
▼おそらくパソコンに打ち込んだ文字を直接印刷する方法があるのだろうが、そのやり方がわからない。時間はかかるが、この細かな作業も一種の修業だと思うことにしている。内容はともかく、安全書類や完成書類を製本するこの種の事務処理も、ひとつのリテラシーだと思う。女性はたいていこの能力に長けている。いや彼女たちも文句を言わないだけで、ある程度の時間と手間をかけて作っているのかもしれない。
▼さて、前社長から購入を持ちかけられた集合住宅の隣りの部屋だが、いよいよ完全に引っ越したようだ。引っ越した直後にうちに出入国管理局の人が訪ねてきて、お隣さんについていろいろ聞かれたと、社員旅行中に妻が知らせてきた。いずれにしろ、時折ベランダに響いていた奥さんのタガログ語を耳にすることはもう二度とない。
▼休職中の友人が再び旅先から自撮り写真をメールしてくる。

今度の訪問地は鹿児島。天文館に宿をとり、指宿の砂蒸しから桜島の足湯と入り放題。いいご身分だ。かるかんと汲み出し焼酎を送ってくれた。

▼友人の鹿児島レポートが呼び水となって埋もれていた記憶が甦った。小学校一年の時鹿屋に住んでいた。家族で海に行った写真が残っている。弟と揃いの服を着て砂浜で釣りをしている。僕も弟もまだ一人では釣竿を持てない年だ。母に手を添えられて、それでも自慢げに釣竿を持つ弟は、うちの下の子にそっくりだ。日本でロケットというと種子島が有名だが、ここも内之浦というロケット打ち上げ施設だときいた。
昭和天皇行幸されるというので、父と表通りまで見に行ったことがある。日の丸を振る人の群れの中、黒塗りの車が一瞬で通り過ぎた。僕は陛下を待つ間に、背面の施設の門柱と鉄扉の隙間にいた黒い甲虫を取り出すのに夢中になってしまい、陛下の御姿をはっきり見ることができなかった。これは1972年の太陽国体の行幸のことだろう。
▼今から40年以上前、まだ板垣退助の百円札がめずらしくなかった頃だ。奇遇にというか、成るべくしてというか、両親とは結婚の時期も家族構成もほとんど同じだから、今の僕はこの時の父より既に15才も年をとっていることになる。そのことが俄かには信じがたい。正直混乱する。ボケ老人が子供も孫も区別がつかなくなる気持ちもわからないではない。
▼暑かった鹿児島では、やはり夏の記憶が多い。我が家では麦茶をビールの空き瓶に入れて冷やし「麦茶ビール」と称していた。当時ビールは缶より瓶が主流で、酒屋がケースで配達するものだった。スイカ泥棒をして後生大事に持ち帰ったスイカを、うちに着く直前に落として割ってしまったことが、人生初の深い悔恨の記憶として残っている。
▼近所の子が、いつの間にか縁側から勝手にうちの中に上がり込んでいた。捕まえようとすると逃げるのだが、まるで猫のようにすばしっこかった。それから同じ年頃の姉弟がいて、弟同士、僕はお姉ちゃんとよくいっしょに遊んだ。気が強くて男の僕に負けていなかった。ケンカしていない方がめずらしいくらいだったが、ある時うちの椅子に座って足をブラブラさせながら矯正の歯を見せて笑っていた、その笑顔が忘れられない。黒いおさげ髪を三つ編みにした可愛らしい子だったが、もう十年以上前に亡くなったときく。まったく美人薄命だ。


木曜はヨガカレー。金曜はガパオライス。土曜はコストコで買ったソーメンにお惣菜のてんぷら。