涼新た

酷暑の夏も一雨降って一息ついた。週間予報では来週初めにも傘マークが見える。海の日以来20日以上も日照りが続いたのだ。今日はまた晴れて気温が上がったが、確実に峠は越えたと思う。いい風がカーテンを揺らしている。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
▼紆余曲折のあった連休工事も、いざ始まってみると可もなく不可もなく。問題がないわけではないが、概ね想定内。若干進行が早く、今日は望外の休工だ。妻は帰省中、上の子はなしのつぶて、下の子は夏合宿の独身貴族である。コンビニで文藝春秋を買って、話題のピース又吉の芥川受賞作「火花」を読む。
▼読後感は極めてオーソドックスな青春小説というもの。売れないお笑い芸人が後輩の視点から描かれているが、正直新味に乏しかった。文体や描写も少し古い感じがする。だがこれは、又吉が日頃から「芥川や太宰が好き」と公言しているのがブラフでないことの何よりの証拠だ。
▼前夜たまたま人気番組プレバトに出演していた又吉は、文学的センスが問われる俳句と絵手紙の分野で共に堂々の一位を獲得し、まさに「才能アリ」であることをうかがわせていた。彼は間違いなく純文学ファンであり、実際かなりの本を読んでいるようだ。作中、先輩後輩の間で戦わせる芸人論は、そのまま芸術論であり、批評論にも通じる。
▼多くの審査員が好意的な中、島田雅彦は「楽屋落ちは一回しか使えない」と評していたが、僕はむしろそこに書かれていることが、現役のお笑い芸人しか知りえない、お笑いの世界の内幕とは感じられなかった。かなりユニークな人物に描かれている「神谷先輩」だが、そのような人物はどこにでもいる。それが又吉の表現力による普遍性の獲得というより、ステレオタイプに感じられてしまうのだ。
▼「若い頃に出会った重要な他者」を描く典型的な青春小説(奥泉光)がどこか似てきてしまうのは仕方がない。そこで私淑する先輩なり師匠の姿は、どうしても天才肌かつエキセントリックなものになりがちだ。なぜならそれはその人物の特徴ではなく、二人の関係性からくるものだから。おそらくどの世界の誰にとってもそれぞれの「神谷先輩」が存在するだろう。
▼それでも僕は「火花」を評価したい。容赦ない時の流れの中で集散する人と人との一期一会が描けていると思うから。この小説を読んで、僕も僕の「神谷先輩」たちを思い出した。学生時代の哲ちゃん、塾講師時代のケンちゃん、年は下になるが、今の友人もそうかもしれない。
▼「ベートーベンの交響曲を一番から九番までどうしても欲しくなって買って帰ったらうちにプレーヤーがないことに気づいて、それを売ってプレーヤーを買った」「子供の月謝を全部飲んじゃった」「入社式のパーティで急性アルコール中毒でひっくり返って救急車で運ばれた」僕の「神谷先輩」たちも前代未聞のエピソードに満ちている。
▼彼らは僕にとって紛れもない「他者」だった。親兄弟でないのはもちろん、先生でもただの友人でも先輩でもない。自分の人生に影響を与えるのは、そのような「他者」との出会いだけである。そしてそんなにも大切な人との蜜月も長くは続かない。青春の、ある一時期だけのものなのである。
島田雅彦は「一発屋の又吉君」とも書いていたが、僕はこの紋切型の小説が、彼がこれから小説を書いていく上で、どうしても書いておきたかった最初に通らなければならない道だと思いたい。太宰治「斜陽」の文庫版の解説で柄谷行人が「太宰が小説に定着したかったのは斜陽感のようなものではないか」と書いていたような気がするが、その伝で言えば、彼は今後形を変えて哀惜感を定着させる作家になるはずだ。
▼最後にタイトルの「火花」を、僕はずっと「花火」だと勘違いしていた。どっちでもいいと思う。導入は二人が出会った花火大会の前座の描写から始まる。今日はこの辺で一番の花火大会がある。缶ビール片手にベランダに出てみようか。


誕生日は下の子と二人でうちから一番近い(徒歩5分)焼肉チェーンの食べ放題。正直他のチェーンに比べてコスパは悪い。でもそんなことはあまり重要ではないと思っているのも僕だけじゃないのかもしれない。でなきゃとっくに淘汰されているはずだ。