名ばかり民主主義

今日で八月も終わり。秋風と共に更新頻度も上がってきた。今年は猛暑だったが、振り返れば海の日に梅雨が明け、お盆に猛暑が一服し、甲子園と共に夏が終わり、月末には秋雨前線が定着した。季節の推移としては極めて正常な夏である。正味ひと月。忙しくてバタバタしていたこともあるが、「夏は短い」というのが正直な感想である。
▼さて、陸上、柔道、バレーの世界大会が盛り上がる中、スポーツ最大の祭典オリンピックの東京大会に関連して噴出した様々な問題が収束の兆しを見せない。僕はこれを、オリンピック招致を契機に現代日本が抱える諸問題が顕在化した「東京五輪シンドローム」と呼びだい。その特徴を一言でいえば、あらゆる物事が我々一般人の与り知らぬところで既に決定されていることにある。
▼五輪エンブレムのデザイナーが実際にはリエージュの劇場ロゴをパクっていなくても、新国立競技場建設計画が白紙撤回されても、原発が再稼働した方が経済にも環境にも優れていても、安保法制が成立した方が日本の安全保障に利するとしても、普天間から辺野古に基地を移した方が実質的に沖縄の負担が減るとしても、国民の反発が収まらないのは、ひとえにこれらのことが「既定路線」だからだ。
▼例えばいくら親の方が子供の倍生きてきて世の中のことを知っているからといって、子供の希望に反する進路を設定し、結婚相手まで決めるとしたらどうだろう。子供は反発するに決まっている。たとえそれが「客観的に」あるいは「経済的に」苦難の道であったとしても、自分の道は自分で選ぼうとするだろう。なぜなら自分の人生は親の人生ではないからだ。
▼だからアベチャンがいくら「この道しかない」と力もうと、官房長官が「国民の命を守るのは国の責務」とうそぶこうと、「余計なお世話だ」という空気はどんどん広がってゆく。僕もそんなに若くはないが、多少リスクがあっても、経済的に恵まれなくても、自分の国のことは自分たちの意思で決めたいと思う。それが「主権在民」であり「民主主義」というものだろう。
▼ところがここんとこの内閣の憲法解釈変更から安保法制審議までの一連の流れの中で、今まで当然のこととして信じられてきた「日本は民主国家である」という前提が揺らぎ始めたところに、東京五輪関連の問題が露呈し、これらが日本特有の同じ病理に根差していることに国民が気づき始めたのだ。それはこれまで自らの意思で決定してきたと思っていた全てのことが、実は「デキレース」だったのではないかということにつきる。
▼例えば先ごろ五輪組織委員会は、エンブレムの選考過程を公表し、現在のデザインは修正案で、原案にリエージュの頭文字Lの意匠はないことを明らかにすることで、エンブレムがパクリではないことを証明しようとしたが、そのことは別の問題を明らかにすることになった。それはサノ氏が、最終的に応募した現在のデザインで五輪エンブレムの座を射止めたのではないという事実である。
▼現在のエンブレムは、札幌五輪エンブレムの作者とサノ氏が修正協議を重ねながら共同制作するというやり方で作られた。エンブレムを現在のようなシンプルで機能的なデザインにするために審査員が選ばれ、決定デザインより先にデザイナーが選ばれた。そして審査員とデザイナーの間で先行の商標登録を確認しながら素案を揉んでゆく。その意味では今回のエンブレムは国(組織委員会)主導で作られている。しかし事情を知らない我々はデザインは公募で選ばれたと思うだろう。
▼公開された応募資格は「大きな賞の二回以上の受賞歴がある」という極めて狭いものだった。みんなに開かれていると思っていたことが、実はそうではなかった。しかし物事はあくまで民主的に決定されている風に装おうとするその欺瞞に、国民は反発しているのだ。彼らは基地や原発が危険だから反対しているのではない。物事を決めるのはごく限られた一部のステークホルダーではなく、主権者たる我々ではないのかと怒っているのだ。

今日は絶品カラアゲにトマトオクラコーンサラダ。下の子がしみじみ言う。「オレごはんと寝る時が一番楽しみや」僕が言う。「オマエ幸せだなあ」下の子がハッとする。「そうだね、難民に比べたら…」。全くこんな国でも日本はまだマシなのだろうか。少なくとも下の子の好きなアスリートの真剣勝負はデキレースから最も遠いところにある。