災害予知の死角

関東、東北地方が大水害にみまわれている。堤防が決壊し、住宅地に川の水がどんどん流れ込む様子を、テレビが延々映し出している。新幹線の古川駅近くの川も決壊した。東北大震災の災害支援に行った仲間を陣中見舞した際に乗り降りした駅だ。映像を見た多くの人が、震災の津波のことを思い出したに違いない。
▼一昨日までは、僕も担当事業所の台風対策に駆けまわっていた。台風18号に刺激された秋雨前線は、僕の住む地域にも、前日の火曜までに観測史上最大の大雨を降らせていた。既に市内のいたるところが冠水し、翌朝の直撃に備えて現場は早々に休工を決めた。水曜は朝のうちこそ雨風共に強かったが、午前中のうちにはやみ、午後から一転汗ばむ陽気となった。
▼鬼怒川が氾濫したのはその翌日の昨日のことである。一昨日までは、僕の住む地域も同じようになる可能性は十分にあったはずだが、落差がありすぎてうまく想像することができない。そして今日、その豪雨の範囲が東北に移り、宮城県の古川駅近くの川が氾濫した。テレビは昨日と全く同じ、水没した家と田んぼを映し続けている。
▼昨日までの東北の人たちも、大雨が通り過ぎていった僕と同じだと思う。鬼怒川で生起している事態がうまく想像できていない。テレビで氾濫の実際の映像が流れ、電信柱のおじいさんが救助ヘリに吸い込まれていく。画面は天気図に切り替わり、レーダーが栃木から茨城にかけて次々に雨雲を運んでくる様子を映す。天気予報は、その降雨帯が今日は東北に移っていくところまで確かに放送していたはずだ。
▼線状降雨帯というのだそうだ。南北に流れる鬼怒川の、ちょうどその流域一帯に重なるように南北に伸びた雨雲が動かない。南北の帯はキープしたまま少しずつ東北の方に移動していく。気象予報士風に言えば「偏西風が蛇行して、日本海に抜けた台風18号がなかなか動かない一方で、日本の東海上にある強力な17号の供給する湿った空気が、ちょうど北関東から東北一帯に大雨の通り道を作った」ということになる。
▼過ぎた事象を解説しても何にもならない。当たらないと天気予報を非難してるわけじゃない。天気予報は最初から大雨を予測していた。特別警報を出し、土砂災害を警告していた。ただ、気象予報士も含めた我々の想像力が足りなかっただけである。帯がちょっとズレると、被害の場所と規模は全然違ってくる。これが東京に降った可能性も十分あったという。さすがにそこまでの予測はなかなか難しいらしい。
▼同様に、地震の正確な予知も難しいと言われている。地震に比べれば、天気予報の精度は格段に上だろう。東海地方の大雨を受けた北関東の人はともかく、少なくとも東北の人たちは鬼怒川の氾濫を見て、雨雲レーダーの画像を真剣に見ているはずだ。そしてある程度大雨が降ることを理解してはいた。しかし自分の家が流されるとは誰ひとり思わないものである。戦争に行っても自分だけは死なないと思うのと同じだ。
▼どんなに科学が進歩しても、100%の予知は不可能だとよく言われる。でもたとえ科学が進歩して100%の予知が可能になったとしても、100%の防災はできないと思う。それは人間の知覚の死角のようなもののために、予測されている事態をうまくのみこめないからだ。人間は自分に都合の悪いことには目を閉じてしまうものらしい。それは余命宣告を信じたくないガン患者に似ている。
▼そんなこんなで水曜はいろんなところから台風見舞があった。この辺の大雨が全国ニュースだったことを実感するも、昨日今日の大災害に何もかも吹っ飛んでしまった。台風一過のその晩は、着任した監督と決起集会。会社きってのエースだけに話がわかる。前途洋洋の彼に僕は、一晩中「人生あっという間よ」と繰り返していた気がする。余計なお世話だね。焼鳥→お気に入りのバー×2でシングルモルトをガブ飲み。
▼翌木曜は午前中免許の更新。一年間無事故無違反で誕生日を迎え、これでようやく免停地獄から解放された。免停まで6点あるなんて、免許取って以来初めてじゃないかしら。そして今日は土日事務仕事したくないので、月曜提出の見積を片付けようと勢い込んで会社に戻ったら突然停電でパソコンがシャットダウン。ブツブツ言ってたら総務の野郎に「停電て言ったじゃん」と逆ギレされてしまった。言ったかもしれないが、聞いてない。全くとんだ災難だ。
▼更新がまた週一ペースに逆戻りだ。

月曜はナスとさつまいも炒めにゴボちゃんサラダ。なんかぬるっとする食感はコンニャクらしい。冒険しすぎ。

火曜はプルコギにレンコンキンピラに鳥サラダ。

水曜飲み会、木曜ヨガカレーの後の今日はペンネグラタンにレンコンサラダ。