責任の所在

いつまでも暑い。外に出ている分にはいいが、車を停めて戻ると夏のように暑い。だが窓をあけて昼寝していると、時折ゾッとするような風に目が覚める。強風ではない。冷たくもない。ただなぜか寒気がしておちおち寝てられない。
▼ニュースからワイドショーまで横浜の傾いたマンションの話題一色である。一応同じ業界の人間として、二次請の旭化成建材ばかり矢面に立っている現状に驚きを禁じ得ない。ましてその親会社の旭化成の人間が、謝罪会見に同席して涙ながらに頭を下げるなんて、違和感を通り越して唖然とするばかりだ。たぶん建設業界に携わる全ての人がそう感じていると思う。
▼マンション販売会社の三井不動産が、客であるマンションの住人に謝るのはわかる。だが「傾いた」という建物の不具合について、会見を開き、つまり世間一般に頭を下げるなら、それは三井住友建設をおいてほかにない。施工に関する瑕疵の最終的な責任は、全て元請にあるからだ。それを「改ざんされたら見抜けない」なんて自分も被害者みたいなコメントよくも言ったもんだ。
旭化成建材は、一次下請ですらない。現場で実際に杭打ち機を操作したのは、旭化成建材のさらに下請会社だろう。では一次の日立ナンチャラは何をしていたのか。実質的に工事には一切関わっていないはずだ。単に一枚かんで中間マージンを抜くだけ。それは大人の事情かもしれないが、抜かれた分だけ旭化成建材(の担当者)が手抜き工事を志向する経済的要因にはなる。まあそれは本質的な問題ではないが。
▼なぜ旭化成建材が前面に出ているかといえば、担当者が杭を手配し、改ざんしたと言われるデータをとり、つまりは実質的に杭打ち工事を請け負っていたからだ。だがそのことが三井住友建設の責任を減じることはいささかもない。元請=ゼネコンの役割は、まさにそれぞれの工事を担当する専門業者の仕事を、総合的に管理し、適切な指示を出すことにあるからだ。つまり責任を伴う判断は、元請の人間にしか下せないのである。
▼元請がボーリング調査の結果をもとに杭の位置と長さを決め、工事業者はその仕様通りに杭をそろえる。工事を進めるうちに、地盤の傾斜により長さが足らない箇所が出てくる。データの改ざんがあったように言われているが、現場の人間、それも一人で抱え込める問題じゃない。「どうします?」という話は絶対にあったはずだ。地盤に届いていない杭八本は全て工事終了間際に集中し、工期に追われて黙ってヨシにしたみたいに言われているが、元請の判断を待って後回しにしただけだろう。
▼この問題の本質はどこにあるか。重層下請構造も工期絶対主義も関係ないわけではないが、一義的な問題ではない。これはヤクザの子分が親分の身代りに出頭してムショに入ることから、一連の東京五輪のゴタゴタにまで共通する、きわめて日本に特徴的な問題であり、元をたどれば言うまでもなく「天皇の戦争責任」に行き着く問題である。
▼それは一言でいえば、「本来責任をとらなければならない立場にいるはずの人間ほど責任をとることから守られている」ということであり、従ってあらゆる局面で、上位にいくほど責任がなくなるという不思議な事態が出現する。つまり日本では、責任から免れているように見える人や組織ほど隠然たる力を保持していることになる。やたらと責任をとりたがる人は小物だ。気をつけなきゃ。旭化成も相当な大企業だと思ったけど、力関係では三大財閥の方が全然上なのかな。まあこのままで済むとは思えないけど。
▼もうひとつ感じるのは、地面の下が宙に浮いているような一大事を、どうして「何事もなく」「工期通り完了」してしまったのだろうということ。ここにも一度決まったことはけして後戻りできない我々の社会の「既定路線性」を強く感じる。安保法制も、今沖縄で進行中の辺野古移設も、パンピーのレベルでは覆すことのできない「決定事項」なのだ。
▼そこには「消費税を据え置いて選挙に大勝し、安保法案を通して経済最優先に戻る」というような筋書がたしかにあるはずだが、当の本人の口から本当のストーリーを聞けるはずがない。我々がアベチャンや政府が説明不足だと感じるのはそういうことである。要するにいいようにごまかされているわけだ。かくして日本では「決定事項」は「粛々と」進行し、誰かが責任を問われるような重大な問題は、発覚するまで「先送り」にされる。

日曜は下の子が引いた風邪を妻がもらって家事をする気力がなく安い外。

月曜は鶏とレンコンの炒め煮に牛肉とピーマン炒めにポテサラ。この風邪は勝負が早いようだ。そして今日は僕と長男にまで拡大し、ノドがやたらに痛い。