砂上の楼閣

残暑というほどではないが、最高気温が25度を超える日が続いている。その間ずっと晴れているということだ。夏の終わりの集中豪雨が嘘のようだ。日曜を境に季節は一歩進むらしい。もう10月も終わりである。進んでもらわないと。
▼今年はサンマの不漁に続き、牡蠣も不作らしい。さみしい限りだ。正月の妻の実家の牡蠣入りの雑煮が今から楽しみだ。ほんとにそれくらいしか口にする機会がないかもしれない。一尾300円、家族四人で1200円(サンマのみ)では、もう庶民の味覚とはいえない。グルメの領域に属する。一杯500円以上するラーメンのようなものだ。
▼仕事が忙しいのか、そうでもないのかよくわからない。これから始まる工事の打合せだけは異常に多くて毎日てんてこ舞いだが、実際に工事が始まっていないので実感がない。この実感がないのに話だけ進むのがよくない。机上の空論というやつだ。工事は戦争によく似ている。現場は爆音の響き渡る最前線だ。自ら現場に出て状況を把握し、工事がどういうものか身をもって確かめないと道を誤る。
▼傾きマンションの騒動が収まらない。会見するのは旭化成サイドばかりで、施工者であり元請である三井住友建設の人間が全く表に出てこないこと、問題のデータ改ざんに手を染めた人間をニュースキャスターが「現場代理人」と連呼することなど、建物が傾くというより首を傾げたくなることばかりだ。
▼前者については前回エントリーで述べた。後者については、各次業者の職長は、形式的には確かに「現場代理人」かもしれないが、工事現場で「現場代理人」といえば、普通は「現場所長」のことである。元請からみて孫請の出向社員(この言い方もおかしい)など、「職長」ですらない単なる「世話役」にすぎない。現場責任者といっても、およそ責任とはかけ離れた立場にあることは言うまでもない。
▼問題の発覚から一か月。事が公になるまでのこの間に関係者で話し合われたシナリオが、今我々が目にしている茶番である。すなわち旭化成グループが三井住友建設の弾除けになって、データ改ざん常習者のこの男に罪をなすりつけてしまおうというものだ。「ルーズそうで」「事務処理が苦手そうな」役づくりまで完璧だ。しかしそのことと元請が負うべき社会的責任とは全くの別問題である。
▼データの改ざん改ざん騒ぐけれど、そもそも世の中に異常なデータというものは存在しない。施工不良を示すデータなんて、そんなもの揃えたところで検査にも通らないし提出できるはずもない。データの数値は全て正常。それはそれとして実際の施工がちゃんとしてるかどうか。そりゃたまには今回のようなことだってあるさ。人間だもの。相田みつを
▼人間は間違える生き物である。しかし我々が生きている社会は無謬社会だ。そこに矛盾がある。現場は悪天候でも工期優先でソレイケヤレイケだからデータどころじゃない。しかしデータの欠損は許されない。なおかつ正常な波形しか許されないとなれば、結果的にデータは切り貼り(コピペ)にならざるをえない。彼は特別「ルーズな」人間じゃない。
▼だいたいちょっと傾いたぐらいでなんだ。高層マンションで2センチ傾いて実際に何か不都合があるのか。不都合は具体的な居住性に関することではなく、資産価値が下がるとか欲得に属するものばかりだ。建物はまっすぐでなければならないと誰が決めた。ピサの斜塔を見ろ。傾き続けてン千年。傾いてナンボだぞ。豊洲のマンションの住人がインタビューで「不安」とか言ってたけど、元は海だったんだから傾いて不思議じゃない。
▼とにかく普通の感覚からすれば、作業する人間に責任なんてありえない話だ。また、二次請の親会社が会見に出てきて、元請が会見しないなんてことも考えられない。作業する人間に指示する立場の人間が、何かあった時に「知らなかった」「見抜けなかった」「そこまで管理できない」で済むなら、「責任」という言葉は憲法と同じく何の意味もないものになってしまう。
▼日本人は今一度、自らの来し方行く末について考える時期に来ているのではないか。その意味ではまさに今度の横浜傾斜マンション問題は、現代日本を象徴する出来事だと思う。社会システムから人心まで、「見かけは立派だが実は中身は腐っていた」ということでなければいいが。

火曜はブリ照り。

水曜はカブのシチュー。季節に献立が先行している。木曜ヨガカレーに金曜絶品カラアゲだが写真なし。