2015年回顧

今年も末の末まで仕事をして慌しく帰省の途についた。(これを書いている時点ではまだ2015年大晦日の新幹線の中。アップは年明け自宅に戻ってからになるだろう)。晦日に帰った下の子は満員で座れなかったそうだが、さすがに大晦日の最終にはちらほら空席も見える。3日の帰りの指定はとれなかった。みんな似たようなものだ。僕だけが特別忙しいわけじゃない。
▼年々一年が速くなるような気がするが、今年は特に速かった。年明けからの怒涛の年度末工事が終わると、5月には結婚20周年記念で台湾に、6月には社員旅行で沖縄に行った。7月には大阪の友人を訪ねた。懸案の大型物件を受注して8月に着工すると、あとは10月の東京行、11月の義父の葬儀とあっという間だった。
▼今年はノルマが5倍になって、随分働いたような気がするが、こうしてみるとよく遊んでるな。よく遊び、よく働け。ただ単にマジメに働いても、結果が伴わなければ何もしてないのといっしょだ。要はメリハリである。このまま年度末まで無事乗り切って、後になって「あれが転機だった」と思える年になればいい。
▼プライベートを離れても、今年は後になって転換点だったと言われる年になる要素を十分に備えている。安保法制の成立を初めとする表向きのトピックのことではない。かつてこれほどこの国に自由も民主主義もないことが明らかになったことはなかった。この国ではあらゆることが予め決まっており、民主主義とは手続きの偽装にすぎないことがはっきりした年だった。そのことが端的に顕れたのが一連の東京五輪がらみの騒動である。
▼アベチャンは「私の責任で私が決断した」というのが大好きだが、五輪組織委員長の森元首相や事務局長の武藤元財務次官は、いったいどういう経緯で今の位置にいるのだろう。もう何もかも最初から決まっているのである。エンブレムは佐野某氏、新国立は前の国立を作った大成建設…何回繰り返しても結果は同じ。だからアベチャンも得意の大見得がきれる。佐野氏やザハ氏が途中で切り捨てられたのは、所詮泡沫の個人だからだ。
▼世の中はアベチャンやカンチャンや森元首相や武藤元財務次官や大手ゼネコンのものだ。けして一般国民のものではない。「民主主義」は彼らが好き勝手するために利用する免罪符にすぎない。いわく「国民の付託を得た」と。だからこそ我々は選挙の都度「経済最優先」「税金を上げない」というポピュリズムに背を向けなければならないのに、いつもコロッとだまされる。日本人は自分の生活のことしか考えない民度の低いエゴイストと言わざるをえない。
▼この大政翼賛的状況に孤軍奮闘しているのが沖縄の翁長知事だ。我々はアメリカの手先でも、ましてやロシアや中国、あるいはISなどアメリカ中心の世界秩序に反発する勢力の防波堤でもない。その当然のことが一般国民にピンとこないのは、防波堤の機能が沖縄だけに集中し、日本自体が防波堤にされている現実が見えにくいからだ。沖縄は日本全体のスケープゴートであり、同時に日本全体の象徴でもある。
▼横浜傾斜マンション問題について、第三者委員会の答申が出た。建物の傾きは「ゼネコンの責任」。杭打ちデータの流用については、現時点で傾斜したマンションが横浜の一件以外に報告されていないことから「傾きとの因果関係は薄い」と結論づけられた。概ね僕がブログで主張してきた通りである。就任以来ゼネコンに肩入れする発言ばかりしてきた石井国交相はどんな思いで答申を受け取ったのだろう。これが有識者だけでなく、世間一般の常識と信じたい。
▼28日最後の忘年会の後は、29日に下の子と、翌30日に上の子と毎年恒例のとんかつ屋で今年最後の晩さん。三人の都合が合わず二晩連続となったが全然OK。ここのとんかつはそれぐらいウマイのだ。年末特番にも関わらず面白い番組がひとつもない。日経の回顧記事も読むべきものがひとつもない。公明党ゴリ押しの軽減税率は新聞にも適用されるらしいが、あらゆるジャンルで日本的なものが煮詰まっている感じがする。長くはもつまい。日本の将来は暗い。
▼夜中に到着し、駅ビルから地上に降りて目抜き通りを歩いてみる。幼いころ、埃っぽい道路にバスから降り立った記憶が微かに甦る。周囲にまだ高い建物はなく、やけに黄色く明るかった。おそらくは父方の祖父の葬儀の際の、それがこの土地の最初の記憶である。それから繁華街を歩き、亡くなったマスターの店によってみた。バーだけが連なる小さな雑居ビルに、マスターの店の痕跡はどこにも残っていなかった。記憶に刻んでおきたい。