仁義なき戦い

春にしては雨が少ないと思っていたら、金曜は一日雨。月曜も花散らしの雨になるという。雨の合間を縫って、この土日は各地の桜の名所が花見客で賑わったことだろう。
▼久々の連休である。月が替わって不思議にケータイも鳴らなくなった。下の子は部活、上の子はデート、妻はまだ実家から戻らない。僕はひとり雨と雨の合間に花見ならぬたまった洗濯物を片づける。あとはもっぱらテレビ鑑賞。時間の無駄遣いのようだが、一種のリハビリである。筋肉が弛緩してゆく感覚がある。
山口組と神戸山口組の対立激化を受け、NHKが暴力団の今を特集していた。資金源を断つ対策が功を奏し、全体としては弱体化しているという。ゲストの蛭子さんの「じゃあこの人たちはどうするんですか?」という質問がワンテンポ早すぎた。貧困ビジネスや診療報酬の不正受給など巧妙化するシノギの手口を紹介していたが、そういうことではないんだな。
▼こういう人たちの受け皿をどうするか。反社会的勢力の問題は、最終的には蛭子さんの質問に集約される。番組は最後に元暴力団員を雇用する企業に助成金を出す仕組みを紹介していた。障碍者や外国人の雇用促進と同じ仕組みだが、昨年度実績は足抜け2000人に対しわずか18人。そりゃそうだ。普通の人でも就職に苦労するご時世なんだから。
▼絶対的にパイが不足する中で富の偏在を認めておいて、彼らのような鬼っ子だけを悪者扱いするのはおかしな話だ。彼らだって生きていかなければならない。シノギとはそういうことだ。生活保護を掠め取る貧困ビジネスしかり。診療報酬の不正受給しかり。企業への助成金制度もいずれ悪用されるだろう。では次の例はどうか。
▼最近子宮頸がん予防ワクチンの後遺症に苦しむ女性が集団で国を提訴した。健常者向けの予防医療は、病気になってから処方される医薬品とは裾野が違う。学童期の全ての女子に奨励される子宮頸がんワクチンは三回接種で約5万円。これが国庫から支払われるのだから製薬会社にとってはドル箱である。濡れ手に粟とはこのことだ。
厚労省が奨励したこのワクチン接種事業に奔走したのが某国会議員であり、その女性議員の夫がワクチン製作会社の顧問弁護士だとしたらどうだろう。ヤクザのシノギなんてカワイイものだ。製薬会社はこの夫婦にいくら成功報酬を払っても惜しくないはずだ。
▼それとも単に訴訟リスクを織り込んだ上でのロビー活動であり高額な顧問料でありワクチンの費用設定ということにすぎないとでもいうのか。それなら不正受給はともかく貧困ビジネスだってとやかく言われる筋合いはない。世の中は公費を巡る仁義なき戦いの場だというだけの話だ。
▼もう一度暴力団の問題に戻る。彼らはある意味最も公費に近い存在である。しかし正当な方法では、うまくいってチマチマと派遣のような生活を送れるようになるにすぎない。そんなメンドクサイことの対価がそんなものなら、頭の回転の速い人間なら直接手を突っ込んだ方が手っ取り早いと考えるのが自然だ。
▼番組は我々の社会に彼らを受け入れる覚悟が必要だという。しかし彼らが社会に適応できたとして、彼らに用意されるのはせいぜいのところ建設労働者や派遣クラスの生活だ。彼らには最初から製薬企業社員や国家公務員や番組出演者クラスの生活は閉ざされている。それともまさか我々の社会は自由だから本人の努力次第なんて信じてる人はいないでしょうね。
▼生まれた時から片親でネグレクトされ似たような仲間とつるんでろくに学校に行かない子供が高等教育を受けることが可能だろうか?答えはノーだ。彼らがいいものを食べ、いい女とセックスし、いい車を乗り回すには、暴力団のやり方で公金に手を突っ込むしかない。そしてその事情はいわゆる一般市民も似たり寄ったりだ。
▼金曜は上の子の就職祝いに街に飲みにつれていった。成人したので前から飲みに行く約束をしていたのだが、面接結果が出る31日の夕方まではまだ身の振り方が決まっておらず、人生相談になりそうな雰囲気だった。口幅ったいことを言わずに済んだだけでも就職が決まっていてよかった。
▼実際下の子も連れていってジュースを飲ませ、それらしい話は一切しなかった。19時の電車で街に出て焼肉を食べ、いきつけのバーに回り、見たかった22時からの72時間スペシャルに間に合った。子供といっしょなら健全なものだ。もっとも72時間は寝落ちしてしまったが。
▼焼肉はともかく、大竹しのぶママの店にはいたく感動していた。チェーンの居酒屋→カラオケボックスでバカ騒ぎしかしたことがないらしく、「あの落ち着いた店なんなん」と目を丸くしていた。早いうちに筋のいい店を知っておくに越したことはない。バカらしくてキャバクラなんか行かなくなるはずだ。
▼僕が父と初めて飲んだのも、確か同じ年の頃だったと思う。仕事で上京してきた父を馬場のいきつけのジャズバーに連れていき、下宿に帰ってきて部屋でも飲んだ。まだ三畳間でマフラーをしていた記憶があるから、大学二年の冬のことだろうか。僕が昼間部に転部したことをことのほか喜んでいた。
▼父にとって、僕がかろうじて孝行息子でありえた最後の頃のことだ。まさかその後ろくに単位もとらず六年まで無駄に在籍した挙句中退することになるなんて、父も僕もその時は知る由もない。あれから30年がたち、今親として同じ思いを味わっている。何もかも回り番だ。この子の魂は汚れていないと信じたい。口直しのウチゴハンの写真がないと後味が悪くていけない。妻の帰還まであと少しの辛抱だ。