オールドネイビー

風薫る4月最終日、妻の運転で一路故郷をめざす。車窓から見える新緑の山々に時折混ざる藤色がアクセントになっている。山中に自生する藤の花だ。
▼夕刻フェリー乗り場に到着。コンビニで夕食を買い、昨年就航したばかりの新造船に乗り込んだ。新しいってすばらしい。ちょっとしたホテルなみの快適さだ。陽が沈む前に明石大橋をくぐり、寝る前に瀬戸大橋を過ぎる。下が航路にあたることを考慮して、柱の数が最小限の吊り橋にしたわけだ。どうやって作ったんだろう。本当によくやると思う。
▼翌朝到着後、妻の実家に寄って、お義父さんに線香をあげる。お義母さんはだいぶ元気を取り戻したように見えるが、お義父さんが亡くなる前に比べると、やはりどこか違う気がする。介護ベッドの足につまづいて足の甲を腫らしていた。大根を落としたオバチャンと同じだ。人間傘寿を過ぎると足を腫らしやすくなるのだろうか。
▼友人宅に向かう妻に実家で下してもらう。父がガラケースマホに変えていた。固定電話よりコミュニケーションがとりやすいと帰省のたびに勧めてきたが、ケータイ+パソコンで十分と今日まで聞き入れなかったのだ。孫の勧めもあって今春ようやく重い腰をあげたものの、使い方がわからず購入以来一度も使っていないという。
▼手にとってみて驚いた。あれほどiPhoneと言ったのにXperiaである。うちの家族が全員iPhoneだからアップルの端末だと互換性がいいと言ったのを全く聞いていない。気を取り直してLINEをダウンロードし、さっそく下の子とテレビ電話を試みる。父が相好をくずす。顔を見ながら話すのと声だけとでは大違いだ。これが最大の目的である。
▼父はけして世の中の動きに疎い方ではない。それなりに経済力もある。これからはIT時代だと、パソコンが出たての頃から勉強して独学でHPまで立ち上げたくらいだ。しかしすぐに誰でもブログを開設できる簡易なフォーマットが出回った。父もそのうち自分のHPではなくプロバイダーの定型のフォーマットを使用するようになる。
▼そしてiPhoneの登場で情報端末の汎用形態が確定した後も、手をこまねいているうちに時間だけが過ぎた。父も自分で「早くから手をつけてきたのに一番肝心な時についていけない」とこぼしていた。こうした例を見るにつけ、僕はこの人の息子なんだと強く感じる。勘所がわからない。理が勝ってすぐに行動できない。考えているうちに時宜を逃す。人の言うことに耳をかさない。
▼このような様相を表すのに適当な言葉を探すとすれば、やはりいろんな意味でリテラシーが低いとしか言いようがない。一言でいえば不器用なのだ。加齢からくるものもあるだろうが、プライドが高く気難しい性格も影響しているかもしれない。内弁慶と言ってもいい。こうしてみるとリテラシーとはコミュニケーション能力と言い換えてもいいかもしれない。
▼いや、父だってリタイア後十余年にわたり、それこそ独学のパソコンを駆使し、あるいは交流会や現地で得た知己を通じて情報を収集し、ツアーに頼らず自力で航空券や滞在先を押さえてきたのだ。それは父の世代としては行動力のある方に違いない。自分のふがいなさを他人に投影して憶測で決めつけるのは失礼というものだろう。
▼その日は親子三人水いらずで近場の国民宿舎に泊まった。ここ二年は正月の挨拶だけだったので、久しぶりに両親とゆっくり過ごした。短い時間ではわからなかったことにも気づくことが多い。以前からそうだったが、父はテレビばかり見ている。音が異常に大きい。運転も危なっかしい。スタートでバックギアに入れる。道の真ん中で平気で止まる。
▼ここ数年、母の身体の調子が思わしくなく、長年の習慣であるタイのショートステイもままならないようだ。十年続けた「南国暮らしの会」もこの3月で退会したという。調子が悪いといっても日常生活に支障があるわけではない。ただ、いかんせん高齢だ。海外旅行、それも長期滞在となると話は別である。
▼「時間はいくらでもあるのに…」と父がボヤく。時間とお金がある程度自由になるのに、思うように過ごせていないと本人が感じているということだ。「一人で行けばいいじゃん」と言いかけて飲み込んだ。母を置いて一人で行けるわけがない。50年以上いっしょだったのだ。それは僕が妻なしでは何もできない内弁慶なのとはまた別の感情によるものだろう。
▼帰途、ラジオからRCサクセションが流れてくる。「ドカドカうるさいロックンロールバンド」「スイートソウルミュージック」「わかってもらえるさ」「トランジスターラジオ」四曲も続くなんてめずらしい。途中で清志郎の命日だと気がついた。沿道にはツツジが咲き誇っている。彼は初夏のこんないい季節に、58の若さで旅立ったのだ。ずっと早すぎると思ってきたが、初めて一瞬だけちょっぴりうらやましい気がした。