×太郎の遍歴時代

7月に入って軒並み真夏日である。この先一週間は雨の気配はない。まさかとは思うが、本当に梅雨もこれで終わりなのだろうか。梅雨入り坊やにきいてみなきゃ。
▼打合せにきた屋根屋の番頭が、さっそく職人が具合が悪くなったという。ただでさえ暑いのに屋根の上じゃ鉄板焼きだ。いや泳げたいやきくんだ。彼が言うには最近職人がすぐ弱音をはくという。確かに僕がこの業界に入った10年以上前はそうでもなかったが、5年くらい前から急に増えたような気がする。温暖化も進んでいるが、職人の高齢化も進んでいる。
▼「もう夏は仕事なんかやめちゃえばいいのにね。屋外作業禁止とか法律で決めてさ。1ヶ月くらいバカンスにするとか。そういう国もあるんだから全然問題ないと思うけど」と僕が言うと、彼も「これだけ人が死んで気をつけようだけじゃねえ。ゼネコンもわーわー言うだけじゃ無責任ですよね」と言う。本当にその通りだと思う。日曜の夕方に打合せしてる僕らも僕らだけど。
▼新聞をやめてひと月になる。当初はさみしくなるかと思ったら、全然そんなことはなかった。今となっては新聞を読むのが毎朝の日課だった頃のことを、もううまく思い出せない。起きる時間は同じなので、出勤までのコマワリのどこに新聞を読む時間があったのか不思議なくらいだ。人は新しい生活にすぐに慣れてしまうものだ。
▼僕の新聞遍歴は、父が単身赴任でいなかった頃は朝日新聞だったことは書いた。小学校高学年から高校にかけて、年にして10〜18の頃である。その前のことは覚えていない。たぶん夕刊の文化欄ばかり読んでいた気がする。地方の田舎者にとっては貴重な中央の文化の情報源だった。けどこの時期に実物を見ずしてレビューで判断する癖がついてしまった。
▼晴れて上京した直後、下宿に新聞各紙の勧誘が押し寄せてきて、一時3紙購読していたことがある。他の2紙は忘れたが、ひとつは「世界日報」だった。僕の下宿は大学の真横にあって、先輩たちが勝手にダイヤル錠をあけて空き時間の休憩所にしていた。ある日下宿に戻ると「×太郎、世界日報統一教会だ。気をつけろ!」という書き置きがあった。
▼わずか一週間程度の購読とはいえ、その間「恒久世界平和のためのナンチャラ行動」といった見出しに何の疑問も持たなかった僕も僕だ。もちろん即断りの電話を入れた。といってもケータイのない時代である。まだ肌寒い夜、公衆電話からドキドキしながらかけた記憶がある。「田舎者をだますようなことして」と非難したが、僕が本当に気にしていたのは解約できるかどうかの一点だった。
▼さて、スマホを買って格段に進化した音楽環境。ダウンロードするのはやはり若かりし頃に聴いた曲だ。僕の音楽遍歴を幼少期からたどる。うちにあったレコードはベートーベンの「運命」とチャイコフスキーの「悲愴」がAB両面に収められたクラシックと、カーペンターズのベストの二枚きりである。おかげでこれらの曲はそらんじている。
▼僕は幼少期からピアノを習い、小学校では鼓笛隊に入っていたが、人の原体験になるのはうちにあるレコードの方である。ご多聞にもれず、僕も小学校高学年ではザ・ベストテンをみていた。中学校の時、好きな女の子の名前と音が同じ「順子」から長淵剛のファンになった。中2の時医者の娘の家でホームパーティがあって、みんな自分の好きなカセットを持ち寄ったら、彼女は洋楽しか聴いてなくて唖然とした。
▼時は空前のオーディオブームである。みんなbossのスピーカーがどうだとかサンスイのアンプがどうのと話していた。僕も話の輪には入っていたが、うちにあるのはビクターのオーディオセットだった。その中のひとりからお年玉でアイワの小さなカセットデッキを買った。コンセントを差し込んで何回かテープを巻き戻したり進めたリした後で返した。
▼高校から主に僕に影響を与えたのは弟である(逆だろ!)。彼が聴いていた佐野元春やポリスを聴いた。それから受験前に中学の同級生の女の子からシーナ&ザ・ロケッツを知った。これらは上京した年にレンタルCDをダビングしてよく聴いた。大学1年の終わり頃からジャズバーに通い、ジャズを聴くようになった。2年の途中から私淑した(哲)学者の影響でバッハとモーツァルトが好きになった。
▼けれども今、僕の社用車で四六時中流れているのはザ・スミスモリッシーである。オルタナとかポストパンクに分類されるこのUKロックバンドの活動時期は80年代半ば。このバンドのことを僕が知ったのはエロ本時代の90年代初のことだ。僕より少し後に入ってきたバイトの口からこの名前が出た時、僕は冗談半分に「森進一?」と聞き返したのだ。
▼入ったばかりの彼を編集部近くの洋食屋にランチに誘った時、内気そうな彼は確かにうれしそうだった。例によって「音楽は何を聴くの?」といような質問から入ったのだろう。彼について、父親が職業カメラマンであること、マスターと同じ映画学校出身であることなどを知った。「ライブで薔薇の花を投げるんですよ」と彼は言った。
▼マスターの店にも連れていったが、彼とはその後すぐに疎遠になった。彼は僕に批判的だった。編集部でも僕を睨むようになり、セリフまではっきり覚えていないが、一度酒の席で面と向かって僕の態度はおかしいと言われた。それはたぶん「主流派にすりよっている」というようなことだったかもしれない。どこか物悲しいメロデイを聴きながら、僕は20数年の時を超え、彼に懺悔しているのだ。