友だちに会いに

相変わらず暑いが、そこここに秋の気配を感じる。一面に色づく田んぼ。むせかえるような稲穂の匂い。刈り入れも近い。秋風に法被をなびかせながら、男衆が祭りの準備に余念がない。人間の季節の営みが、遅れ気味の自然の背中を押しているようだ。
▼過日、親友からのメールで、高校の同期の親御さんが亡くなったことを知った。既に終わった葬儀に参列した知人が、我々の姿が見えなかったので連絡してくれたそうだ。参列者は故人の関係者と、同期の関係者は勤務先である大学が主だったらしい。つまりお医者さんである。もう何年も会っていないとはいえ、高校の部活で同じ釜の飯を食った者としては一抹の寂しさを覚える。
▼柔道部のみんなで卒業旅行に行く前の晩、彼の家に集まって焼肉をご馳走になった。その時は親父さんも僕によく声をかけてくれた。最後に会ったのは十数年前のやはり柔道関係者の葬儀。僕を認めた親父さんは怒ったような顔で睨みつけ、口もきいてくれなかった。僕の思い過ごしかもしれないが、まるで僕が息子の友人としてふさわしくないとでもいうかのようだった。それというのも僕はこれと同じ視線を過去に浴びたことがあるからだ。
▼結婚して数年後のことだ。当時都落ちしていた僕は地元の彼といっしょに母校の同窓会に出ていた。その日彼はすれ違う人ほぼ全員と立ち止まって話をし、その都度僕は横で話が終わるのを待っていたのだが、途中やはり医者になったヤツと同業者同士特に話が長くなった時のことだ。そいつが別れ際に「なんだこいつ」というように明らかに敵意のある目で僕を一瞥したのだ。まるで「オレたちの仲間としてふさわしくない」とでもいうように。親父さんはその時の男と全く同じ目をしていた。
▼高校の柔道部で、僕らの学年は団体戦の人数と同じ部員5人の小所帯だった。入学当初は6人いたが、途中で一人やめた。レギュラーになれないからやめたのではないが、数の力学が全く働かなかったということはないと思う。体の大きな選手はおらず、全員が中量級だった。他の学年に比べ特にまとまりがよかったわけではないが、引退式の時先生が「学年ごとにその代の柔道の色というものがある。お前たちにも確かにそれがあったな」とおっしゃってくれた時はうれしかった。
▼五人全員が柔道経験者だった。二人は幼少の頃から町道場に通っており、あとの三人は中学の部活から。町道場出身が主将と副将をつとめ、彼は副将だった。実力的には五人にさして差はなかったと思う。強いて言えば勝負に対する執念が違った。それはまだ物心つかない子供に武道をやらせる親の負けん気が影響していると思う。亡くなった親父さんも道場の顧問で、応援にきた試合会場で息子の柔道着の襟をつかんで指導するほど熱心だった。
▼少ない人数で毎日同じ顔を相手にしていると煮詰まってしまう。僕はすぐに飽きて以後真剣に練習することはなかった。本番で頑張ればいいと思っていた。そういう時でも彼らはけして力を抜かなかった。それはマジメというよりは、やはり負けず嫌いといった方が近い。本番に強かった僕は練習で彼らに投げれられても実力は自分の方が上くらいに思っていたが、そういう漠然とした感覚はともかく、彼らとしては目の前のひとつひとつの具体的な力関係で下になりたくないわけだ。
▼こんなこともあった。主将の家に遊びに行った時のことだ。お母さんが僕に目をとめるなり上から下まで品定めするようにねめまわして、「あら、この子強そうね」と言ったのだ。その態度にひどく驚いたことを覚えている。その時は理由がわからなかったが今はわかる。僕の母なら自分の子供をよその子と比較するなんてありえないことだからだ。父も試合を一度見にきたきりだった。両親が頓着なく見守ってくれたおかげで、僕たち兄弟はそれ以上頑張る必要がなかった。
▼副将の彼は医者になったが、主将は日本を代表する大企業に入り、同窓会の頃は地方の事業所にいて30そこそこで自分の親世代のリストラを手掛けていた。もうすっかり縁が切れてしまったので正確なところはわからないが、今頃は本社の部長くらいにはなっているだろう。それくらいそつのない男だった。今、二人のことを思い出しながら勝ち組の条件を考えると、やはり勝利への執念のような気がする。そしてそれはそのまま親の期待の現れでもある。
▼母親の期待を背負った主将はともかく、父親の期待に応えようと努力した副将はいいやつだった。男の子なら普通は男親の期待に応えようとするものだ。その意味で彼はこれ以上ない孝行息子だったことになる。互いに結婚式のスピーチまでしたのに(僕は二次会だけど)すっかり疎遠になってしまった。なんにしろ光陰矢の如し。人生あっという間だ

玉子焼きに肉野菜炒めに出来合の惣菜に冷凍食品各イチの毎日同じ弁当だが不思議に飽きない。

水曜はオクラの肉巻きに芋サラダ。

そして今日はヨガカレー